【けんちくのチカラ】シンガーソングライター 小田和正さん×建築史家・建築家 藤森照信さん | 建設通信新聞Digital

4月19日 金曜日

公式ブログ

【けんちくのチカラ】シンガーソングライター 小田和正さん×建築史家・建築家 藤森照信さん

9歳で「出会った」前川國男

 シンガーソングライターの小田和正さんは9歳の時に日本近代建築の巨匠、前川國男の建築と出会っていた。場所はわからなかったが、そこで聞いたほぼ同年代の童謡歌手、小鳩くるみさんの歌声が耳に残っていた。対談場所となった神奈川県立音楽堂(横浜市)は、前川の設計だ。この場所を提案したのは、対談相手の建築史家、藤森照信さん。小田さんとは東北大学建築学科で同級生だった。この提案に小田さんは即座にOKを出した。そして対談までに、もしかしたらと、小学生のころに聞いた小鳩さんのコンサートをおぼろげな記憶として思い出し、当日話してくれた。それが公演履歴からまさにこの音楽堂だとわかった。小田さん自身も「良く思い出したよね」と驚く。不思議な縁とも思える。大学の卒業設計の中に前川との縁があったからだ。

 歴史を重ねてきた建物は、その空間に詰まった物語が次の新たな物語を刺激するのかもしれない。9歳の時に前川國男と「出会い」、それが大学へとつながる。神奈川県立音楽堂で小田さんにちょっとした物語が生まれた。対談は、同級生ということでお互いに投げかける言葉が学生時代に戻ったように気さくで、親交の深さが伝わってきた。


◆ワンスロープの一体感

 小田さんは、ここで対談するということから場所ははっきりしないが、自身がコンサートなどの公演を見た記憶をたどってくれた。

 「何かないかなと思って多分、多分なんだけど、小学校の時に課外授業で音楽鑑賞みたいなのがあって、それがここかもしれないと。童謡歌手の小鳩くるみさんが出てた。小学校の1年から5年ぐらいまでのどこかで、(この音楽堂が)完成した年を調べたらここしか考えられないんだなあ。それと大学に入ったころかな、落語がすごく好きだったので、古今亭志ん朝さんが見たくてここに来た。小鳩くるみと志ん朝だ。記録はないですが、そうだったことにして(笑)」

 対談の後半、音楽堂の担当者が公演の履歴を調べたところ、小田さんが9歳の時の1956年11月、小鳩くるみさんらが出演する『良い子に送る楽しい童謡音楽会』が開かれていた。志ん朝さんは67年に出演している。

 調べてくれた履歴のメモを渡すと、「(小鳩くるみさんの公演は)やっぱりだ、よく思い出したよね。どうしてここだと思ったか最初は分からなかった。そして完成した年を調べて多分そうかなと。いやあ、驚くな」と自分でもびっくりした様子だった。

 「昔こういうところでやってた時に、そう言えばと思い出したのが、どういう会場が盛り上がったかということ。よく一体感とか言うじゃない。階段の『ケツ』まで行って途中で切れて、2階になるホールは盛り上がらないこともないんだけど、このホールのように上まで階段状(ワンスロープ)で続くつくりには勝てないよね」

 そう話す小田さんに、藤森さんは「それは面白い指摘だ。会場をつくる時にどうすれば盛り上がるかなんて普通は考えないよね。階段の途中で区切られていると2階の人には『手が届かない』感じになる」と答える。小田さんは「(2階席は)冷静に見ているって言うかね。このホールだと、いまも客席を見ていると(走って)行かなきゃって、そそられるものね」と笑わせる。神奈川県立音楽堂は、オフコースの初期のころに出演している。初めての出演は履歴によると1972年12月7日。南こうせつとかぐや姫、杉田二郎さんと一緒に出ていた。


◆レベルアップする場所

 小田さんの東北大学の卒業設計は「ART VILLAGE」という宿泊施設を持つ芸術の村。この時に本人は気付いてはいないが、9歳の時の前川との縁が再びつながっている。対談ではそんな物語が生まれた。

小田 この『ART VILLAGE』の中に大小のホールがあるのだけど、それは前川さんの京都会館をパクらせてもらって、パクると言ったって(笑)。

藤森 学生だからパクったとは言わない(笑)。

小田 言わないでしょう、勉強させてもらった。やっぱりね、逃げても逃げても巨匠のそれが最後は正解なんだなって。

藤森 東北大学に残っていた卒業設計の資料はマイクロフィルムなんだよ。それで文字が小さくて読めない。

小田 大したこと書いてないからいいよ。

永井館長(右)と3人で客席に


藤森 君は経験ないかもしれないけど、ぼくは大学の先生をやって学生を指導していたからわかるのだけど、大学生になると知性だとか感覚だとかの基本がもう出来上がっている。そう考えるとこの卒業設計の中には相当重要なものがあると思って一生懸命見たんだよ。まず最初に書いているのが内部作用と外部作用。内部作用というのはインテリアのことではないんだよね。演奏者にどんな作用を与えるかということ。建物をつくるときにライブの演奏者のためという発想は普通はない。内部作用でアーティストのレベルをアップすると書いている。アーティストのレベルが低いというふうに感じてたの?

小田 と言うか、場所が必要だということ。そういう場所をつくってやらないと。レコード大賞のように、ある程度権威のある賞をつくればやっぱり伸びていく。それと同じように場所を用意してやればレベルが上がっていくのじゃないかという思想だね。

藤森 それとね、アートに内在する矛盾と葛藤と書いてある。それはどういう意味?

小田 いや、覚えてないな。理屈っぽいこと書いてたんだな。

藤森 家内と一緒に見てて、私も家内もものすごく興味を持ったのだけど、雨の中で若い男女が傘をさして会場に入っていく絵があるじゃない。それで左に前川さんの音楽ホール(笑)。そこに『そんな寂しい風では何も生まれてこないのです』って書いてある。珍しいよね、卒業設計でこういう傘の中の2人を描くというのは。

小田 そんな風では、というのはこの絵とあまり関係ないと思う。いまの音楽環境では、ということ。当時の(商業主義が前面に出た)音楽環境に反感を持ってたからね。いまになって思えば、それもありだよね(笑)。構造の先生には『建築は絵画ではない』と言われたけど、意匠の先生はすごく褒めてくれて、それが救いだったね。いまでも覚えているけど対称形を上手に崩してよくできています、みたいなことだった。

◆『極楽』『落ち着いた曲』

 小田さんは、対談に際して藤森さんから何冊か送られてきた本をとても興味深く読んだと話す。

 「君の心情がね、東北大学にいた時にとても寂しい思いをしたって書いてあったじゃない。びっくりしたんだよね。暗いっていうイメージがなかったから」

 藤森さんは「基本的な性格は明るいのだけれど鬱屈していた」と話す。藤森さんの著書『のこす言葉 藤森照信 建築が人にはたらきかけること』(平凡社)にその心情が書かれていて、高校時代の充実に比べ、大学に入ってからは暗かったという。小田さんは「そんなに寂しかったのだったら言えばよかったのになと思って」と思慮深く笑う。

 藤森さんの作品は、45歳から設計を始めて50点ほどになる。小田さんは「最初、1つ2つと出てきた時は少し異様な感じはあったけど、不思議なもので数がそろってくると力を感じるね。同級生をほめちゃうけど(笑)」と感想を述べる。

 藤森さんは「故郷や滋賀県近江八幡市のたねやさんなどでいくつかまとまって仕事をさせていただいているけど、集まってくると周りに与える影響を感じるね。それと『極楽』をつくりたいと結構本気で思ってるんだよ。時間が止まってて、庭があって花が咲いてて建物がある。もしかしたら私がやりたかったことはずっとそれだったんじゃないかとすら思う。この世を忘れられるようなものがつくれれば良い。たださ、極楽ってどうやって発注が来るのかって。あの世に行ったら戻ってこないんだから(笑)」といま最も関心を持っていることを楽しそうに話す。

上まで階段状で続くつくりは盛り上がると、小田さんは話す


 小田さんは数年前から、歌詞を押し付けがましくない程度に自然な情感を込めて歌うようにしていると言う。

 「若い頃はあんな高い声でどうして歌ってたのだろうと本当に思うね。いま聞くとうるさいよね。それと歌は楽器のように歌っていた。情感を込めて歌うなんてことは恥ずかしくて、歌詞があるから淡々と歌っていても届くものはあるかなと。でもここ数年は、詩があるのだから押し付けがましくない程度にちゃんと歌った方が良いと思うようになってきた。低い声も出るようになったので、全体的に落ち着いた曲を歌ってみたいなというのはあるね。最後は、『あれが終わりだったんだ』みたいな感じかな。間違っても最後のツアーとかは、なしだね」



(おだ・かずまさ) 1947年9月20日生まれ。横浜市出身。東北大学工学部卒業、早稲田大学理工学部建築科修士課程修了。69年オフコース結成。82年日本武道館連続10日間公演を実施。89年2月オフコース解散。91年シングル『ラブ・ストーリーは突然に』が270万枚を超えるヒット。『いつか どこかで』(92年)『緑の街』(98年)の2本の映画監督作品を発表している。2001年から「クリスマスの約束」(TBS)と題した音楽特番を放映する。02年のベストアルバム『自己ベスト』は、発売から500週チャートにランクイン(=TOP300入り)と史上初の快挙を成し遂げている。

(ふじもり・てるのぶ) 1946年長野県生まれ。東北大学工学部卒業、東京大学大学院博士課程修了。建築史家、建築家。現在、東京都江戸東京博物館館長 東京大学名誉教授 工学院大学特任教授。近代建築や都市計画、路上観察に関する著書多数。近年の建築作品として近江八幡ラ・コリーナ草屋根(2019年度日本芸術院賞)、多治見市モザイクタイルミュージアムなど。海外においてもフリースタイルの茶室を多数制作している。『藤森照信作品集』(2020年TOTO出版)




■神奈川県立音楽堂の建築概要/建設当初の佇まいを継承・復元

照明学会の2019年照明普及賞を受賞した夜の音楽堂
(撮影:畑亮)

 神奈川県立音楽堂が竣工したのは1954年秋、まだ戦後の焼け跡のバラックが残っている時代だった。県は52年、サンフランシスコ講和条約締結記念事業の一環として図書館単体の建設を決めていたが、当時の神奈川県知事だった内山岩太郎氏は、「戦後復興に向けて人々が落ち着いて音楽を楽しみ、明日への力を養う場が必要」と年来の強い「宿願」を県民に提案し、図書館併設の音楽堂建設を実現させた。設計は指名コンペの結果、前川國男の案が採用され、英国のロイヤル・フェスティバル・ホールに範を取った音楽専用ホールとして当時、「東洋一の響き」と絶賛された。2018年1月から始まった1年2カ月にわたる大規模改修では、デザインや「木のホール」としての響きなど建設当時のオリジナリティーを忠実に復元、建築作品としても新たな注目集めている。

 神奈川県立音楽堂は、公立施設としては日本初の本格的音楽専用コンサートホールとして開館した。ホール内部の壁面はすべて木でつくられ、「木のホール」としての響きはいまも国内外から高く評価されている。コンペは、前川國男のほか、坂倉準三、丹下健三、吉原慎一郎、武基雄の5氏。当時の日本は音響学が未成熟の時代。前川は、1951年に竣工した英国のロイヤル・フェスティバル・ホールを視察し、その音響報告書を基に、音響設計の東大生産技術研究所の渡辺要研究室(担当は石井聖光氏)とともに、手探りの状態で実験を繰り返したという。

 RC一部S造地下1階地上4階建て延べ4139㎡の規模で、客席数が1054席(竣工当時は1331席)。所在地は横浜市西区紅葉ヶ丘9-2。施工を大成建設が担当した。1993年に再開発計画「紅葉ヶ丘文化ゾーン基本構想」で解体の危機に陥ったが、利用者を中心に保存運動が展開され、危機を免れた。

 大規模リニューアルは18年1月15日から19年3月15日まで実施された。設計を前川建築設計事務所、建築工事を日成工事が担当。「使われ続ける建築」として、設備は省エネなどを考慮した最新のものに更新し、外観や内装、ホールの響きは、徹底して建設当初の佇まいを継承・復元している。永井健一館長によると、ホールとともに建築的評価の高いホワイエも修繕などで変わっていたが、建設当初のシンプルな空間が再現された。

 ホールの木の壁面も、音響が変わらないように損傷した部分だけがていねいに修復された。こうした完全復元の試みによって「建築の魅力が再評価され、リニューアル後の『建築見学ツアー』は大人気です」と永井館長は話す。




【けんちくのチカラ】ほかの記事はこちらから


建設通信新聞電子版購読をご希望の方はこちら