【寄稿/渡邉憲市(八千代エンジニヤリング北日本支店道路・構造部シニアプロフェッショナル)/怠った備え、探す「答え」】
2011年3月11日、当社の北日本支店が入る仙台市内のビルの6階。業務中の私を襲ったのは、遊園地のコーヒーカップを力任せに振り回しているようなすさまじい揺れでした。「ビルが倒れて死ぬのか」と、初めて死を感じる体験をしました。脳裏にあったのは、家族の安否を問う焦燥感でした。仙台港近くに遊びに出掛けていた長女と連絡が取れたのは、震災発生から20時間近くがたった翌朝のこと。すぐに車で向かい、避難所で再会した娘の顔は、恐怖と疲労で別人のようにやつれ果てていました。
震災から2日後の3月13日、私は緊急橋梁点検のため石巻市大川地区に入りました。許可証を手に向かったその場所は、住宅地が完全に水没し、茶褐色の水面に2階建ての屋根が点々と浮かぶ、目を疑う光景でした。厳重に柵が敷かれ、護送車やパトカーが並ぶ異様な状況の中、道端には泥に汚れたランドセルや鍵盤ハーモニカが整然と並べられていました。その柵の向こうに大川小学校があったこと、そして児童約80人が亡くなるという悲劇の舞台であったことを、私は後に知ることになります。
寒空の下、ねばついた湿度と異様な臭いが立ち込め、がれきの埃(ほこり)が体にまとわりつく現場でした。ヘリコプターの騒々しい音が響く中、黙々と橋を探し点検を続けていたとき、1人の消防団員の方に声を掛けられました。「今日はあの辺りで見つかったよ」。そう語る彼の背中は、計り知れない疲労と哀れみを背負い、あまりにも重く見えました。インフラ整備によって生活を支える仕事に誇りをもっていたはずの私が、その背中を前に「橋の点検をしている場合なのか」と、耐え難い無力感に包まれたことは忘れられません。
その後、私は北の久慈から南はいわきまで沿岸被災地のほぼ全域に足を運び、橋梁点検に始まり、予備設計、詳細設計と復旧への道筋を描き続けました。各地で橋梁が着々と完成していく姿に私は達成感を感じていました。しかしそんな中、ふと思ったのは「人がいない」ということです。立派なインフラがあってもそこに「人がいない」という現実に直面したとき、インフラをつくることだけが復興ではないと痛感しました。そこに「人の営み」が戻り、守られること。技術だけでなく、「何かが足りていない」と考えるようになりました。
15年という月日は、残酷にも記憶を削り取ります。3月11日の当日にテレビでバラエティー番組が流れている光景に、私は強い違和感を覚えます。私自身、かつて阪神・淡路大震災の復興に携わりながら油断から備えを怠り、あの日、防災グッズを満足に確保できていなかった後悔は今も消えません。この「風化」こそが、今の私の危機感です。
あの日、大川地区のぬかるみの中で見た消防団員の重い背中。あれは、私たちが過去から引き継ぎ損ねた教訓の重さだったのかもしれないと感じるのです。歴史のページをめくれば、悲劇は幾度も繰り返されてきました。関東大震災の跡地に立った人々、あるいは阪神・淡路大震災の炎を見つめた人々が遺(のこ)そうとしたはずの「答え」。それは果たして、あの震災が来る前に私たちの手元に届いていたのでしょうか。そして私たちが、東日本大震災を教訓に残さなければならない「答え」は何なのでしょうか。
