本音聞き正直さで共感得る
震度7、マグニチュード9.0の大地震、そして大津波。わずか一日にして東北の街並みや海岸線は変貌しました。当時、私の担当していた改修工事現場はそれほどではありませんでしたが、多くの現場が大小さまざまな被害を受けていました。定例打ち合わせの最中に突然津波が押し寄せ、建物周辺が浸水し、急きょ避難した立体駐車場の車中で、水が引くまで施主・設計事務所・協力会社の皆さまと何日も取り残されてしまった現場もありました。
発災直後の1年間は、本社や他支店からの支援を得て被害の大きい建物から順に調査を実施し、復旧費用の見積もり、協力会社の確保、仮復旧工事の実施と、毎日が慌ただしく過ぎていきました。資材やガソリン供給の遅延と人手不足によって復旧は思ったように進まず、まるで出口が見えないトンネルの中をひたすら歩いているような心境でした。被災地の周辺にはプレハブの仮設住宅が立ち並び、その光景を目にするたびに悲しみと怒りの感情が込み上げ、私はいつも目を背けていました。
そして発災から1年半後、仙台市が初めて発注する復興公営住宅の建設に従事しました。最初に抱いた思いは、被災された方々に、一刻も早くあのプレハブから安心して暮らせる住宅に移動していただきたいということでした。無事竣工後、完成した住宅の様子を見に行った際には、たくさんの笑顔と笑い声に出会い、安心な暮らしが戻りつつあるとほっとしました。
さらにその1年半後には、岩手県釜石市で同様の復興公営住宅の新築工事に携わりました。津波の直撃を受けた場所を元の姿に戻そうと懸命に作業しているたくさんの方々がいました。私もその一端を担う心構えで乗り込みました。
続いてその1年後は福島県葛尾村で、東京電力福島第1原子力発電所の事故から6年後に避難指示が解除された地域で働く場所を生み出すための繊維工場新築工事に携わりました。工事中は村役場と付近の食堂にしか人の気配はなく、近隣住宅は全て空き家という異様な雰囲気でした。完成して2年後に現地を訪れましたが、大きな変化はなく、村に活気は戻っていませんでした。非常に悔しく残念な気持ちで周辺を歩いたことを覚えています。被災地に人が帰ることの難しさを痛感しました。
発災から10年の区切りとなる年に、宮城県気仙沼市にとって最後の復興工事となる公民館移転新築工事を受注しました。安全祈願祭で関係者から直接かけていただいた声で最も多かったのは「工期遅延なくお願いします」というお言葉でした。人手不足や資材調達が困難な状況で建設中の建物が軒並み遅延していたそうです。工事の難易度は私にとって非常に高く、工程管理には苦心しました。紆余(うよ)曲折はあったものの、多くの方々のご協力により完成することができました。「利用予約が取れなくて困る」ぐらいの盛況になればと、心から思いました。
復旧・復興工事で強く学んだことは、相手を慮(おもんぱか)ることです。人の気持ちに触れることができてこそ、本当に満足のいく建物が完成すると確信しました。相手の本音を聞き出し、自分の考えも正直に伝えて共感を得る。建物づくりの基本だと、今の私は考えます。
震災を経験された方々のほとんどが、おそらく生涯消えないであろう何らかの傷を抱えています。しかし、その心の内をできるだけ表に出さないようにして毎日を暮らしています。一人でも多くの人に、私が今まで携わった建物を見て「変わってきたな。復興してきたな」と思っていただければ幸いです。そして、その人の傷がわずかでも癒え、今後に希望を抱いていただければ、これほどうれしいことはありません。

