特別寄稿・建築家 佐藤総合計画代表取締役会長 細田雅春 | 建設通信新聞Digital

5月5日 日曜日

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特別寄稿・建築家 佐藤総合計画代表取締役会長 細田雅春

【AIに聞けば全ての設問に答えてくれるのか/AIへの過剰な期待への懐疑】
 AI(人工知能)への期待が過熱し始めているようだ。生成AIの目覚ましい進歩を目の当たりにして、近い将来、AIが人類を凌駕(りょうが)するかのような期待を持つ向きもあるが、果たして人類は何をAIに期待しているのだろうか。確かに現在のChat(チャット)GPTのような生成AIは、完璧とまではいえないまでも、もはや想像を超えるレベルの回答をしてくれる状態にまで至っていると言ってもよいだろう。なまじの人間よりも正確で、多くのデータを読み解いた結果であろうことが推測される。しかしながら、その回答に対しては不満がある。それはでき過ぎた模範回答のようではあるが、筆者が期待するものとはかけ離れているように感じられてならないからである。何か回答者独自の魅力的な個性的な世界が見えてこないからなのであろうか。それでも、筆者も気が付かないデータが読み込まれた文脈が示されていることに対して驚かされるのは事実である。
 地球上に誕生した人類が飛躍的な進歩を遂げることができたのは、道具を獲得する能力によるものであることは論をまたないだろう。なかでも言語の獲得こそが最大の契機であっただろう。言語を使用することは、単なる他者との意思疎通にとどまらない。例えば抽象概念は極めて内省的なもので、これを不自由なく理解すること、使いこなすことは言語なくしてはできなかったからである。
 その言語は、おおざっぱに言えば脳の進化の産物であると考えられている。そして、脳の進化は全てではないが、脳容積の増大に関係するのではないかと筆者は考えていた。

◆人間のルーツを探る分子人類学
 現在、国立科学博物館の館長であり、分子人類学を専門にされておられる篠田謙一氏の著書に幾度となく触れさせていただき、多くの示唆を受けた。その研究成果を分かりやすくまとめた新書『人類の起源』(中公新書、2022年)では、分析技術の向上により、飛躍的に進んでいる古代DNA研究の成果を基に、旧人といわれるネアンデルタール人とホモ・サピエンスは交雑しており、現代人はネアンデルタール人の遺伝子を受け継いでいること、現代日本人の祖先であるとされる縄文人も弥生人も遺伝子から見れば多様であったことなど、新たな観点を見て取ることができ、極めて示唆を与えてくれるものである。
 また、興味深かったのは「脳容積の変化と社会構造」と題されたコラムである。現代の人類、すなわちホモ・サピエンスは、初期の猿人に比べて、脳の容積が3倍ほど大きくなっているという。一方で、脳という器官は膨大なエネルギーを消費するため、脳容積が増えることは、その脳を持つ生物にとって大きな負担になる。それだけに、脳が必要とするエネルギーを得るために、その行動や食性はもちろん、社会的構造も大きく変化せざるを得なかったという。つまり、効率的にエネルギーを得るために、人間は互いに共同する必要が生まれたということである。

◆自らの脳容量を超える
 その傍証となるのが、行動の複雑さや社会の規模、大脳新皮質の大きさとどうやら相関しているという事実である。これも篠田氏の著書に書かれていることであるが、記憶を伴う交流の規模で考えると、猿人の共同体は50人程度とされているのに対し、ホモ・サピエンスでは、脳容量の違いと同じくおおよそ3倍の150人規模にまで大きくなるのだという。
 しかしながら、企業や学校など、現代の組織はこの人数を大きく超えている。すなわち、こうした貧弱な脳を使って「なんとか編み上げられた」のが現代の社会であるということだ。さらに、氏は「複雑な社会を形成するために生み出されたのが、言語や文字、物語、宗教、歌や音楽といった文化要素だった」と述べている。それは、突き詰めると、脳の能力の限界を超えるために、脳の機能を外部化していくプロセスであったと言える。そうしたプロセスが長い間に洗練されて積み重なり、現代文明の膨大な記録や幅広い交流となって結実しているということなのである。

◆AIの限界と人間の可能性
 篠田氏はこうした現代の状況を「自分の脳が処理できるよりもはるかに多量のデータにさらされる状況でバランスの取れた情報処理ができず、社会の混乱が生じてしまっている」とも指摘している。確かにわれわれは、あまりにも多量な情報に翻弄(ほんろう)されている。そこで期待されるのが、やや過熱気味ではあれ、冒頭に述べたAIの存在ではないだろうか。AIは、ほぼ無限とも言えるデータの集積を基盤として使うことができ、データの処理能力も人間をはるかに超えている。その意味でAIは確実に人間の能力を超え、現代社会の複雑な構造に対応する能力を持つことが可能になったと言えるだろう。
 その上で、人間の能力の本質を改めて考えてみたい。AIが得意とするのは、与えられたデータを基に、それらを適切にまとめて結論を提示することであるが、そこから広がりのある議論や飛躍的な結論、突拍子もないアイデアを生み出すことはできない。それらはデータをまとめるだけでは生み出せるはずのない、人間の精神にしかできない芸当である。さらに言えば、人間はデータの集積からあえて距離を取ること、すなわち余計なものをそぎ落とすことで独創的な考えを生み出すことさえできる。こうした世界は、どれだけAIが進歩しても、データ処理を通じて到達することはできないと考える。独創的な建築や味わい深い文学作品、そして世界を変える発明などを生み出すのはAIではない。AIに多くを期待するのは技術の進歩を考えれば当然であるとしても、AIに期待しすぎる姿勢は、人間の感性ばかりか、能力の可能性をもゆがめることになるのではないかと心配している。