震災との付き合い続く
東日本大震災が発生してすぐ、私は国土交通省東北地方整備局の防災ヘリコプターの搭乗要員として上空から被災状況を把握することになりました。防災課長から「ヘリに乗ってください」と言われ、部下数人と格納庫がある仙台空港に向かいました。道路は大渋滞となっていたため、遠回りでしたが宮城ICから東北道、仙台南部道路、仙台東部道路経由で行くことにしました。その時、仙台東部道路の名取川橋で津波の第1波を目撃しました。河口部から大きな白波が川上に向かって押し寄せ、両岸の堤防をなぎ倒しながら向かってくる津波の恐怖を感じながら、急いで空港に向かいました。空港ICを目の前にして防災課長から引き返せよとの連絡を受けました。Uターンする際に、料金所の先にある県道を猛スピードで走る車を見ましたが、津波が押し寄せているとは分かりませんでした。Uターンして高速道路に戻ると、様相は一変していました。路上に津波から避難した人たちが立っていたのです。避難者を避けながら走行していましたが、名取川橋の手前で止められ、津波に流されてびしょ濡れになった人の救助をお願いされました。近くの事務所に避難者の着替えなどを依頼して整備局に戻りました。
震災後、3日目からは被災自治体の救援を行う物資調達班として、被災地の支援を行いました。最も印象に残っているのが、宮城県南三陸町の仮設庁舎の支援で、ユニットハウスを連結して2階建ての仮設庁舎を建設したことです。当時の日本土木工業協会(現日本建設業連合会)会員企業の協力が大きかったです。4月以降は建設関係の資機材に限定した支援に切り替え、実質4月上旬で終了しました。
その後、ゴールデンウイーク前からリエゾン(現地情報連絡員)として南三陸町に派遣され、6月上旬まで隔週ごとに勤務しました。災害対策会議の出席、町長の記者会見の立ち会い、落橋した橋の迂回(うかい)路、整備局などの復旧事業の把握に努めましたが、避難所の暮らしも理解でき、貴重な体験をしました。
その後は本来の業務に戻りましたが、整備局に来るゲストを被災地に案内することもありました。最も気が重かったのは大川小学校(宮城県石巻市)の案内でした。多くの犠牲を出した小学校として有名ですが、どんなに天気が良くても、行くといつも暗い気持ちになりました。当時は犠牲になった児童の存念が魂となって漂っていたかもしれないと思っていました。
事務所長として郡山国道事務所(福島県郡山市)に勤務した際は、汚染土壌の輸送が始まる時期で、輸送ルートの設定や運搬車両事故対策など行うことになりました。その後、本局に戻ると震災伝承を手伝うことになりました。震災伝承施設の登録制度の導入などを行い、2019年3月28日に第1回として192施設を認定し、月末に退職しました。
その年の7月に東北地域づくり協会に採用となりました。震災伝承を推進する組織化の話は知っていましたが、いつの間にか自分が組織の運営を任されることになって、今に至っています。
あっと言う間の15年で震災後の自分の人生は震災に関連する業務や仕事に携わることが多く、いまだ続いています。振り返るにはもう少し時間が必要なのかもしれません。

