人生一変、「戦友」に感慨
東日本大震災の大きなゆったりした揺れを、私は仙台の支店で体験しました。それを境に私の会社人生は大きく変わり土木技術者とはかけ離れたものになりました。直後の社員・家族の安否確認などの震災対応に始まり、震災直後の混沌(こんとん)とした状況下で社会インフラの復旧工事に携わりました。
中でも震災直後の国道6号の復旧工事は記憶に鮮明です。2011年3月末に自衛隊の防護服着用教育、一般・電離健康診断、放射線管理手帳交付、放射線防護教育と、放射線関連準備を無我夢中で整えて、4月初旬、自衛隊車両の先導で入域しました。避難区域内は、道路上に赤い×印が付いた遺棄車両などが連続する異様な光景に恐怖を覚えました。ゴールデンウイークをめどにかような状況の国道6号を原発関連車両や一時的に避難区域内の自宅に戻られる車両を安全通行可能な状態に復旧せよとの内閣指示の下、工事着手に向けて、80人余りの工事関係者の放射線管理下作業に対する本人と家族の同意を得ると共に、放射線関係準備や資機材調達、そして、宿泊先・食事の確保を同僚の協力の下、準備して出発しました。
工事は、全身に放射線防護装備を着用して飲食・排泄厳禁の環境下で、“木つつき作戦”と銘打って、1班8人程度で資機材を準備して避難区域内の施工場所に一目散に向い、作業所長の指揮で休憩せず2-3時間程度続けて作業していました。避難区域内は、当時携帯電話が通じない場所が多く、施工方法は一応打ち合わせをしていますが、想定どおりには行かず、その場で班長が即断即決し、事態を打開しました。彼らが戻ってくると、報告を受け全職員で翌日の施工打ち合わせ・資機材調達を行い、晩に発注者に日々の報告と今後の対応策の協議に追われました。宿泊先のホテルは日替わりで、シャワーが水でもありがたかった。
無事、けがも放射線に関するトラブルもなく竣工することができました。設計図も仕様書もなく、施工計画もない、予算もない、アドリブで手持ち資源を有効に使って見えない脅威に直面しながら求められた目的を達成する前代未聞の工事でしたが、関係者全てが同一方向を向いて一致団結して事に当たり充実感を享受しました。
その半年後、社命で除染工事に12年間専念しました。最盛期には職員1000人、作業員2万人を擁するプロジェクトの統轄を任せられましたが、その実情は過酷でした。彼らの宿泊施設準備に始まり、除染施工体制確立・発注者協議・地元対応など未経験の専門外業務が山積で、四面楚歌(そか)状態で適切な判断を求められました。その上、作業員に関するさまざまな対応に追われ、自己嫌悪にさいなまれる日々でした。何より辛かったのは、周囲から自分の状況を理解してもらえず、常に孤独の中で土木技術者とは縁遠い業務を遂行し続けました。正直なところ、非常に辛い15年かもしれない。
その後、福島第一原発廃炉事業と、震災復旧復興工事に継続的に携わってきましたが、復興時代に入ると各人各立場で目指す方向が異なり施工者として寂しさ・むなしさを感じるようになってきました。唯一の救いは、発注者の幹部の方より「戦友」と言われたことを感慨を持って思い出します。
発災から15年が経過した今の私の思いをいろいろと書かせていただきましたが、復旧・復興を常に考え働き続けてきたことは間違いありません。現在も福島第一原発廃炉事業に携わっておりますので、「福島の復興なくして東北の復興なし、東北の復興なくして日本の再生なし」の精神で地域に寄り添いながら業務に取り組んでまいります。
