【名古屋城】木造復元事業いよいよ開始! 本丸御殿は18年に全面公開 | 建設通信新聞Digital

4月29日 月曜日

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【名古屋城】木造復元事業いよいよ開始! 本丸御殿は18年に全面公開

現在の名古屋城

 「伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ尾張名古屋は城で持つ」。江戸時代にうたわれた伊勢音頭の一節である。名古屋になじみがなくても一度は耳にした覚えがあるだろう「尾張名古屋は城で持つ」の由来とされ、名古屋は城ができたので栄えるだろうと築城当時に人々が抱いた“予感”をいまに伝えている。そんな名古屋城の木造復元事業がいよいよ始まった。ことし5月、名古屋市は竹中工務店と「名古屋城天守閣整備事業」の基本協定書を取り交わした。また、その周辺では三重県伊勢市のおかげ横丁にならった「金シャチ横丁」や名古屋城本丸御殿の整備が進んでいる。

名古屋市のマスコット キャラクター「はち丸」

 名古屋市の特別史跡名古屋城跡全体整備検討会議天守閣部会(座長・瀬口哲夫名古屋市立大名誉教授)は16日の会合で、名古屋城天守閣の復元概要・復元整備基本構想を公表し、特別史跡名古屋城跡保存活用計画、名古屋城天守の歴史的変遷、現天守閣の評価、天守復元の意義、復元時代の設定の概要、活用の考え方の6項目を示した。整備の基本方針として「遺構等の保存に影響を及ぼさないことを大前提」に、保存・活用のための整備を計画的に実施する。
 今後、18年2月末まで基本設計、7月末まで石垣詳細調査を実施。19年9月から20年3月末までに現天守閣を解体する。20年5月末までに実施設計を終える見通し。着工は20年6月、完成は22年12月を予定する。1945年5月14日に米軍の空襲で焼失した天守をはじめ御殿、やぐら、門で構成する名古屋城本丸を復元し「往事の姿を実感させる場」を創出する。総事業費の上限は504億4680万円(税込み)。

「金シャチ横丁」イメージ

 また、名古屋城の木造復元に先行して進んでいるのが「金シャチ横丁」の整備事業だ。正門と東門の2カ所に商業施設を設置する。2018年3月にオープンする予定だ。第1期整備事業では新東通信、MULプロパティ・日本プロパティマネジメントとデザインクラブEMW、名鉄協商のグループが正門(義直ゾーン)と東門(宗春ゾーン)の2カ所を対象区域に、「食」を始め歴史や知識など名古屋の魅力を伝える飲食店など施設を整備し管理運営する。
 さらに、空襲で天守とともに焼失した「名古屋城本丸御殿」は安藤ハザマ・松井建設・八神建築JVが施工する第3期工事(上洛殿、湯殿書院、黒木書院など)が完了間近で、18年6月の公開を予定している。本丸御殿の総延べ床面積は3100㎡、部屋数は30室を超える。徳川義直が対面儀礼を行った表書院のほか、徳川家光が宿泊した上洛殿、内臣や身内との宴席に使用した対面所、浴室として使用した湯殿書院、清洲城から移築したとされる黒木書院などを備える。

名古屋城本丸御殿のイメージ

 27年のリニア中央新幹線開業による観光客の増加を見据え、これら施設の整備によって名古屋城とその周辺の滞在時間を増やす計画だ。

築城の歴史

 1609年、徳川家康は名古屋城の築城を決定、翌10年から最初の工事に着手した。天守は12年11月に上棟、1-4階が瓦葺(ふ)きで、5階が銅板葺きだった。築城には約20万人が携わり、美濃や三河、四国などから運んだ石材は約9万個、使用した木曽のヒノキは約4万本という。1752年から天守西北側の石垣積み直しなど2度目の工事がスタート、2-4階を銅板葺きとした。その後、1871年の廃藩置県で尾張徳川家から陸軍省の管理となり、93年に宮内省、1930年から名古屋市が管理している。
 戦災による焼失のため49年、天守他建造物27点の国宝指定が解除され、3度目の工事では天守石垣積み替えを実施した。56年から名古屋城再建準備委員会を結成し天守復興に向け調査を開始。翌57年から4度目となる工事の天守閣再建に着手、59年にSRC造地下1階地上7階建て延べ5431㎡の大天守閣が竣工した。
 名古屋城は1521-28年ころ、今川氏親が現在の二の丸付近に築いた「那古野城」を礎とする。その後、戦国の世のならいとして主を代え、城は織田信長の手に渡った。信長の普請奉行・竹中藤兵衛正高を創始者とする竹中工務店に、名古屋城の木造復元が委ねられたのだ。

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