沖縄本島中部の東海岸に位置するうるま市には、1972年に完成した「海中道路」と呼ばれる1本の道がある。平安座(へんざ)島と本島を結ぶ全長約5㎞のこの道路は、四方に広がる鮮やかなエメラルドグリーンの海を眺めながら渡れる、沖縄を象徴する観光スポットの一つだ。だが、その建設の背景には島民が歩んだ苦難の歴史がある。平安座島の人々が“不屈”の思いで挑んだ道のり。当時を語り継ぐ島民への取材を通じてたどることで、インフラが持つ価値を浮き彫りにする。
時は1960年代。沖縄はアメリカの施政権下にあり、経済は米軍に依存していた。「車は右側通行」「通貨はドル」など、「日本でありながら日本ではない」という特殊な状況が続いていた。
平安座島は太平洋戦争で荒廃し、戦後は若者が職を求めて本島に渡り、島に残された老人や子どもは厳しい暮らしを余儀なくされた。本島ではベトナム戦争特需などがあったが、離島の平安座島はこうした経済発展からも大きく取り残されていた。
島民の濱端清治さんは「中学生までは皆が裸足で生活していた」と当時を回想する。靴は運動会や正月など限られた行事でしか履けず、履き古した後は半分に切ってスリッパにして使ったという。現在からは想像を超える“離島苦(しまちゃび)”を物語るエピソードの一つだ。
サトウキビ生産によるわずかな収入で復興に取り組んだが、平安座島の土地は痩せており、搬出条件も悪く、農業は衰退。過疎化は進行するばかりだった。島に残った島民は半農半漁で生計を立てたが、農作業ではハブ被害、昔ながらの船を使った漁業では転覆の危険があった。
島の周辺海域では、進行方向が異なる二つ以上の波がぶつかり合う「三角波」が発生する箇所があり、過去には島民7人が犠牲となる痛ましい海難事故も起きた。
医療環境も整っておらず、ケガや病気の際は本島に渡るしかなかった。だが、サンゴなどが露出した干潟を1時間程度歩く必要がある。加えて潮の干満に左右され、天候次第では数日間島から出られないことも多々あった。米軍払い下げの水陸両用車やジュラルミン船などで多少の改善はあったが、人命が関わる緊急時の対応には限界があり、道路建設は島民の悲願となっていった。
こうした思いから、島民は60年に海中道路建設期成会を設立した。工事費は各世帯の徴収や島出身者の募金でまかなった。米軍からブルドーザー数台などの提供を受けたほかは島民総出による人力が頼りだった。
老若男女がバケツやざるを使って石を運ぶ工事は61年3月に着手。道路は平安座島から本島側の藪地島へ向かって日ごとに延び、島民は完成を夢見て希望に胸を膨らませた。延長800mに達したが、同年7月と9月に上陸した台風で海中道路はもろくも波にのまれて押し流された。
それでも島民は挑戦を止めなかった。翌62年、島民は施工方法を再検討して工事を再開。第1期・2期工事を経て66年8月には全長210mのコンクリート道路を完成させた。しかし本島へ届くにはまだ遠かった。
転機は米国石油会社ガルフ社の石油基地建設計画だった。島民は道路建設を条件に受け入れを決断。周辺では反対運動もあったが、平安座島は島民全員の賛成により事業の推進を決定。そして71年に本島と平安座島が接続、翌72年に悲願の道路が完成した。
期成会設立から10年余り。開通式で当時の中村盛俊村長が「海中道路の開通とともに与那城村の世開けが始まった」と語った言葉からは、島民の熱い思いが伝わってくる。
ここまでは現地でよく知られた史実となるが、島民の記憶には、まだ広く知られていない物語が息づいている。
前森治勝さんによれば、海中道路建設期成会が設立される数年前、当時平安座小中学校の社会科教員だった松田州弘先生が離島苦を打開しようと中学3年の男子生徒約45人を率い、各家庭の「カニガラ」(鉄の棒)を持参させ、隆起した珊瑚礁をひっくり返して干潟に道をつくろうとしたという。
大潮の干潮時を狙い地道な作業を続けた結果、現在の「海の駅あやはし館」付近までの約2㎞を主に中学生の力だけで整備した。しかしこの時も台風で流され、本島には届かなかった。それでも「平安座の島民として海中道路の熱を燃やした」と実際の作業に加わった前森さんが振り返るように、この挑戦が、後の島民を突き動かす原動力の一つになった。
海中道路は完成後、91年に県道に移管、93年に拡張とロードパーク設置工事に着手し、99年に4車線化された。2002年には「海の駅あやはし館」「海の文化資料館」が完成し、観光やレジャーにも利用されるようになった。
一方、道路建設で平安座島の生活環境は大きく改善したが、過疎化を止めることはできなかった。それでも島民は今も大切に守り続ける古い行事や文化、島に眠る歴史的な資産などを生かし、新たなまちおこしに取り組んでいる。
平安座自治会の前自治会長である五嶋眞智子さんは、「海中道路は奇跡の道。先輩は立派だった。だからこそ私たちはその意思を継ぎ、平安座を次の世代につなげたい」と話す。そう語る五嶋さんの表情には、先人から受け継いだ不屈の精神が今も息づいていることを感じさせた。