日々に感謝し「わせねでや」
あの日、前から宮城県沖地震の発生が叫ばれていて備えてはいたものの、予想をはるかに超える大きな揺れと長い時間、「ともかく早く収まってくれ!」と祈る思いで机の下にしゃがみこんでいました。揺れが収まり、仙台市国分町の支店内にいた私は全従業員の無事を確かめた後、家族の安否を知るため、徒歩で帰宅することにしました。道路はガラスやコンクリート片などの落下物、段差がいたるところに発生しており、暗闇の中、自宅に到着したのは出発から2時間半程経過していました。家族は全員無事でした。一部屋に集まり「家はひどい被害」と妻から聞かされ、電気もなく、火災の恐れからストーブも使えず、寒さの中、身を寄せて、携帯ラジオを聴きました。地震の被害状況が伝えられます。「津波が発生したこと。道路に遺体が数百体打ち上げられていること……」音声だけの情報は、より恐怖をあおられます。何が起きているのか分からぬまま、一睡もできずに翌朝を迎えました。家を見て、もう住めなくなったことが分かりました。私は仕事の対応のため、会社へ自転車で向かいました。ビル内は立入りが禁止され、近くのFMセンター(建物の維持保全や改修を担当する部門)に対策本部が設置されました。まず手探りで情報の収集と緊急対応に当たりました。発生が週末だったこともあり、土日はわずかに出勤してきた数人と少しだけ準備ができましたが、14日からの対応は嵐のような日々でした。始めは現状の把握(調査)と緊急対応(危険の排除)です。すぐ原子力災害が発生し、一旦活動は停滞しましたが、情報や対応が明らかになり再開しました。活動の障害はガソリンと食料の不足でした。ガソリンスタンドは前日から長蛇の列、食事は社員自ら炊飯やおかずの調達、そして徐々に回復していきました。全国から支援社員も駆け付けてくれて、体制が整いました。私が実際に現地に行けたのは、案内役として役員トップが来られた発災から17日後でした。毎日調査結果や写真などで、全ての状況を見てはいたものの、現地の被害はあまりに強烈で、迫りくるものがありました。
社会の動きは、まず住宅の確保、住まいは生活の基盤です。仮設住宅が各地に建設されました。そして集団移転や、用地の確保、土地の基盤再整備など多くの課題を乗り越えながら、復旧の段階へ進んでいきました。
当社も多くの災害復興住宅や基盤整備を担当させていただきました。中でも記憶に残るのは、最初の女川町復興住宅です。女川町は津波で街の中心部が全て失われ、高台にあった運動公園が建設用地としていち早く提供され、グラウンドの形状に合わせて5棟の住宅を建設しました。工事が始まり、現場では毎朝作業員全員でのラジオ体操、そこに隣接する仮設住宅に住む地元の皆さんが、音楽に合わせて一緒に体操をされていました。運動不足解消や早く住宅を再建してほしいからです。その「ともに頑張ろう!」という思いに胸が熱くなりました。
あれから15年が経過し、いまだ復興道半ばですが、街は何事もなかったように穏やかです。人は自然の力に対してあまりに無力であること。その大きな力で生かされていること。またどんな困難にも希望を見いだし、立ち上がることができること。「わせねでや」。普段は忘れられがちでも、忘れてはいけない。今日という日々を感謝しながら大切に過ごしていきたいと、改めて強く思っています。

