元鹿島代表取締役副社長で、土木学会会長やダム工学会会長を務めた田代民治(たしろ・たみはる)氏が4月13日、千葉県内の病院で死去した。76歳だった。通夜・告別式は親族と近親者で執り行った。喪主は妻睦美(むつみ)さん、長男一洋(かずひろ)氏。
田代氏は福岡県出身。1971年6月東大工学部土木工学科卒後、同年7月鹿島入社。2005年執行役員東京事業本部東京土木支店長、07年常務執行役員土木管理本部長、08年専務執行役員、09年取締役、10年代表取締役副社長、16年ケミカルグラウト取締役会長などを務めた。社業以外では、16年土木学会会長、18年ダム工学会会長などを歴任した。
常にその発言は、建設現場の実態と建設技術の知識に裏打ちされていた。1971年に鹿島入社後、複数のダム現場を経験し、94年に宮ヶ瀬ダムでJV工事事務所長、95年には温井ダムのJV工事事務所工事長を務めるなど、自他共に認める“ダム屋”。日本ダム協会の懇親会で、人だかりの中心にはいつも田代さんの笑顔があった。
2012年に日本建設業連合会の公共工事委員長に就任。当時の国土交通省各地方整備局との意見交換会は、熊谷組の大田弘氏が司会を務め、予定調和ではない本音のやり取りを始めた頃だった。14年の意見交換会では、直轄工事での工期延長の多さを直言し、現場の工程表を受発注者の「共通言語」にするよう強く訴えた。15年には「建設現場は、休日返上、昼夜兼行といった体制から脱却する時期が来た」と語気強く語っていたことを思い出す。このやり取りが、今では当たり前になりつつある受発注者での工程協議や週休2日の施策につながっていった。
最先端の建設技術に対してもアンテナを常に高くしていた。20年に当紙の70周年特集号でインタビューした際には、デジタル技術を活用する社会的意義と実装に向けた枠組みづくりをとうとうと語り続けた。こうした現場感覚と技術への強い知識欲があるからこそ、多くの技術屋からの尊敬を集めていたのだろう。
いつも話が難解で記事の執筆に頭を抱えていたが、田代さんの頭の中に飛び込んで理解しようとする過程が、記者としての自分を育ててくれたと確信している。最後にきちんとあいさつできたのは22年12月に開かれたケミカルグラウトの技術センター(第二期工場棟)竣工式の場だった。声を掛けると、笑顔でちょいと手を挙げるいつものしぐさを向けていただいた。思い出すほどに、あの笑顔をもう一度見たいという思いが膨らみ、残念でならない。合掌
田代氏は福岡県出身。1971年6月東大工学部土木工学科卒後、同年7月鹿島入社。2005年執行役員東京事業本部東京土木支店長、07年常務執行役員土木管理本部長、08年専務執行役員、09年取締役、10年代表取締役副社長、16年ケミカルグラウト取締役会長などを務めた。社業以外では、16年土木学会会長、18年ダム工学会会長などを歴任した。
常にその発言は、建設現場の実態と建設技術の知識に裏打ちされていた。1971年に鹿島入社後、複数のダム現場を経験し、94年に宮ヶ瀬ダムでJV工事事務所長、95年には温井ダムのJV工事事務所工事長を務めるなど、自他共に認める“ダム屋”。日本ダム協会の懇親会で、人だかりの中心にはいつも田代さんの笑顔があった。
2012年に日本建設業連合会の公共工事委員長に就任。当時の国土交通省各地方整備局との意見交換会は、熊谷組の大田弘氏が司会を務め、予定調和ではない本音のやり取りを始めた頃だった。14年の意見交換会では、直轄工事での工期延長の多さを直言し、現場の工程表を受発注者の「共通言語」にするよう強く訴えた。15年には「建設現場は、休日返上、昼夜兼行といった体制から脱却する時期が来た」と語気強く語っていたことを思い出す。このやり取りが、今では当たり前になりつつある受発注者での工程協議や週休2日の施策につながっていった。
最先端の建設技術に対してもアンテナを常に高くしていた。20年に当紙の70周年特集号でインタビューした際には、デジタル技術を活用する社会的意義と実装に向けた枠組みづくりをとうとうと語り続けた。こうした現場感覚と技術への強い知識欲があるからこそ、多くの技術屋からの尊敬を集めていたのだろう。
いつも話が難解で記事の執筆に頭を抱えていたが、田代さんの頭の中に飛び込んで理解しようとする過程が、記者としての自分を育ててくれたと確信している。最後にきちんとあいさつできたのは22年12月に開かれたケミカルグラウトの技術センター(第二期工場棟)竣工式の場だった。声を掛けると、笑顔でちょいと手を挙げるいつものしぐさを向けていただいた。思い出すほどに、あの笑顔をもう一度見たいという思いが膨らみ、残念でならない。合掌