大阪・関西万博が開催され、賛否を含めて、毎日のようにニュースが流れている。日本としては、1970年の大阪、2005年の愛・地球博に続き、パリに拠点を置くBIE(博覧会国際事務局)によって認定された最上位の万博は、これで3回目となった。なお、1940年に予定されていた紀元2600年記念日本万国博覧会は、戦争の激化によって中止となっているが、そもそも多くの国を集めるイベントを戦争の当事国で行うのは難しいだろう。現在の日本が平和であるからこそ開催できるものであり、今回もロシア館をのぞき、抗争中のウクライナ、イスラエル、パレスチナ、インド、パキスタンなどが参加している。さて、本稿では三つの万博の公式ガイドブックを比較しながら、建築の位置付けを確認したい=写真。
『愛・地球博 公式ガイドブック』(ぴあ、2005年)は、モリゾーとキッコロのキャラクターが表紙と裏表紙を飾る。基本的に設計者の記述はない。外国館のページをめくると、スペイン館は、ザエラ・ポロが外壁に格子窓セロシアを再現したことを紹介しているが、これは例外的である。日本館や各社の企業パビリオンも、デザインの特徴を説明する文章はあっても、設計者は一切言及されていない。
長久手会場の全体をつなぐグローバル・ループは、重要なインフラだったが、菊竹清訓事務所の名前を見つけることはできない。もっとも、愛・地球博では、オオタカの巣が発見されたことで、里山を想定していた会場が変更となり、当初関わっていた隈研吾・竹山聖・團紀彦が外され、外国館はすべてプレハブの箱を使うことになったため、そもそも建築家が活躍できる舞台が少なかった。ちなみに、筆者が取材で訪れたとき、担当者にこれは誰が設計したのですか?と質問したら、某代理店です、という回答が返ってきたことが印象に残っている。
『大阪・関西万博 公式ガイドブック』(JTBパブリッシング、2025年)は、ミャクミャクをモチーフとした表紙デザインである。愛知に比べて、見るべきパビリオンが多いことはよく知られているが、やはり建築家の記述は少ない。見どころとして「万博会場の理念を象徴する大屋根リング」を最初の方で取り上げているが、「会場デザイン・プロデューサーの建築家・藤本壮介」が構想したことを簡単に触れているだけである。
パビリオン図版のクレジット、すなわち1として小さく建築家の名前がアルファベットでときどき出ているが(例えば、SANAA、小堀哲夫、SUOなど)、普通の読者は気づかないだろう。シグネチャーパビリオンに関しては、落合陽一らのプロデューサーが館のデザインも担当したかのような印象を与える。
今回、四つものパビリオンを担当した高い知名度を持つ隈研吾ですら、きちんと紹介しておらず、1の図版クレジットでしか確認できない。若手建築家20組による休憩所・トイレ・スタジオなどのプロジェクトに関しては、存在そのものが記載されておらず、完全に無視されている。唯一の例外は、ウーマンズ・パビリオンのページで、設計した永山祐子が本人の写真入りで取り上げられていた。
これらと比べると、猪熊弦一郎デザインの表紙を持つ『日本万国博覧会 公式ガイド』(万博協会、1970年)は驚くべき内容である。国内展示館はおおむね設計者の名前が入っているからだ。例えば、大江宏、大林組、進来廉、坂倉準三、村田豊、大谷幸夫、黒川紀章、前川國男、竹中工務店、安井建築設計事務所、東孝光、清水建設、三菱地所、日建設計工務・林昌二、生田勉、吉田五十八らである。
また、感心するのは、「会場計画の基本構想」について、丹下健三や西山卯三らがどう関わったという経緯のほか、未来都市のひながたとしてデザインされたことが書かれていた。お祭り広場の大屋根も雨露をしのぐだけの存在ではなく、空中都市をイメージしたことが解説されている。そして前川や黒川のように、建築家が自分の設計したパビリオンの展示プロデューサーを兼ねているケースもあった。1970年の大阪万博では、いかに建築家に対し、未来が託されていたのかが、よく分かる。