【構造家にできること】中田捷夫氏が特別講演「坪井に学ぶ構造設計の流儀ー私の場合」 | 建設通信新聞Digital

4月28日 日曜日

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【構造家にできること】中田捷夫氏が特別講演「坪井に学ぶ構造設計の流儀ー私の場合」

 日本建築構造技術者協会関東甲信越支部東京サテライト(JSCA東京)は、構造家の中田捷夫氏の特別講演会「坪井に学ぶ構造設計の流儀ー私の場合」を東京都文京区の日中友好会館本館で開き、併せてオンラインで配信した。中田氏は師事した構造家の坪井善勝から学んだことと独立してからの経験を踏まえて、自身の信念として「どうつくるかではなく何をつくるか」「構造設計者として挑戦をしているか」などを常に問うことが大切であると強調した。魅力ある建築をつくるために構造家は何ができるかを最優先に考え、形にしてきた軌跡が伝わってくる。

講演する中田氏 (オンライン配信から)


 講演は、前半に坪井の設計の考え方を紹介し、後半に自身の設計を通して構造家のあり方などを述べた。

 中田氏は1940年生まれ。大阪府出身。父親は、昭和の初期にコンクリート構造などの設計を仕事にしていた。「父は坪井先生の本を持っていて、ぼくはそれをよく見ていた。図面を描く鉛筆削りなどを手伝って育った」。日大の建築学科に進んだ後、東大の坪井研究室に研究生として移った。

 坪井の経歴の中で、数学が得意だったことに触れて、数学者に負けない知識を持っていたといい、必ずしも建築にこだわっていたわけでもないと思うと話した。実際に、設計は研究成果の確認のようなところがあって、数学の式が間違っていないかを確認することに関心が高かったという。コンピューターが普及する前は、数学の知識を生かして、トラス構造の設計でコンクリートに置き換えて構造計算をする「等価剛性の評価」を確立した。

 坪井は建築家、丹下健三との仕事では名建築を生み出している。国立代々木競技場もその一つで、この建築では既存の構造システムをどう崩して建築としていかに魅力的なものにしていくかを考えたと述べる。中田氏は「どのように構造計算するかは、魅力的な建築を考えた後でいい。いまは、計算のしやすさが先になっているのではないか」と警鐘を鳴らす。

 大阪万博お祭り広場(丹下設計)では、坪井のもとで30歳の若さで構造設計に携わった。同じく坪井に師事した川口衞から、「膜構造を知っている人はほとんどいないから誰がやっても同じだよと言われ、ちょっとショックだったが経験して良かった」と振り返る。40歳のころには坪井らを通じて建築家の伊東豊雄氏との出会いもあった。

 後半の自身の仕事では、独立後に隈研吾氏、小嶋一浩などとのつながりができて、隈氏とは高知県梼原町の「木橋ミュージアム」で木質構造を手がけ、ほかにも「石の美術館」(栃木県那須町)、「水/ガラス」(ATAMI海峯楼、静岡県熱海市)の構造を担当した。小嶋とも学校などを手がけている。

隈研吾氏との作品 高知県梼原町の『木橋ミュージアム』


 大阪万博お祭り広場に続いて、海中展望塔(高知県土佐清水市)に携わったことをこんな風に振り返る。「海の中にものをつくることが必ずしも良いとは言わないが、構造設計者は挑戦をしているのかを自身に問いただしてみる必要があるだろう」。中田氏は、高知県梼原町で木橋ミュージアムのほかにも「雲の上のレストラン」「梼原町庁舎」「梼原町道の駅」などの一連の施設を木質構造でつくることにもチャレンジした。

 木造は現在、高層への挑戦が始まっているが、まずはなぜ高層の木造が必要なのかを明らかにして、設計者の木質構造への理解をもっと深め、構造設計者が経験を積むなど、いくつかの課題を経て取り組むべきだと話す。チャレンジにも周到な準備が必要であることを経験から指摘したものだ。

 「同世代の周りの人たちが減っていって寂しいが、一つの時代が移り変わっていくことを感じている。構造計算は大事だが、それだけでは構造家が社会的使命を果たしているとは言えない。私の事務所は、一つひとつ思い入れのあるものをつくってきたと自負している。これからの時代の構造設計者の新たなポジションをどう示していくか、皆さんで力を合わせて考えていただきたい」



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