
(なかお・ただひこ)1969年東大大学院土木工学専門課程修士課程を修了、同年4月建設省(現国土交通省)入省。利根川水系・淀川水系の事務所などに勤務。96年土木研究所河川部長を退職し、河川情報センターに勤務し現在に至る。この間、外務省在インドネシア大使館書記官として在外勤務し、バングラデシュ・ジャムナ多目的橋梁に関する国際技術専門家委員会委員(河川制御)などを歴任
ただ、「安くても妥協はない」。あくまでも「地域の技術者や住民が自らの手で建設・維持できるようにサポートする」ことがJIPの使命だからだ。施工は地元の建設業者や臨時雇用された住民が担当し、地方部でも簡単に調達できるセメントや砂利、鉄筋のみを使用する。基礎も現場打ち杭を採用するほか、道路床板と橋脚の厚さやスパンを統一することで、設計だけでなく維持管理をも容易にした。
ミャンマーの地方部では、財源の不足から社会インフラ整備が遅れている。橋は木製で、歩行者と手押しバイクしか通れない場合がほとんどで、雨期の洪水のたびに流されてしまう。村人たちは農作業のための労働力を犠牲にし、毎年橋を架け替えていた。
15年7月に発生した集中豪雨により、100人以上の学童が登校できなくなったという新聞記事に目を留めた朝倉肇副理事長(技術責任者)がミャンマーを訪ねた。ここから沈下橋事業が始まる。16年には調査団を派遣、外務省の資金援助を受け沈下橋を整備した。中尾理事長は「現地調査からわずか1年ほどで完成させた機動力の高さが、JIPの特長だ」と胸を張る。17年5月に開通した前述の橋は「ヨマ橋」と命名され話題を呼んだ。「橋面の高さ決定は大きな課題となるが、雨量データなどに乏しく、現地の古老の記憶で決める」など、幾多の困難を乗り越えて完成した。
コンクリートの沈下橋がもたらしたメリットは数え切れない。人々は溺れる危険を冒して歩いて川を渡ることがなくなった。それだけでなく自動車や大型車も川を渡り、季節を問わず農作物を出荷できるようになった。農業を生業(なりわい)とする現地住民の生活は豊かで安定し、医療面の不安も解消した。病気やけがで治療を急ぐ住民らが搬送され、多くの命を救った。
ヨマ橋の噂はすぐに広まった。マグウェー地域は、同国最大のイラワジ川を中心に無数の中小河川があり、橋梁が不足している。地方議員の一行がヨマ橋の現場を訪れ、マグウェー地域でも沈下橋建設が始まった。17年度には橋長46mのテザ橋を筆頭にテインリン橋、トゥリア橋の3本を建設した。18年度にはさらに要望個所が増え、タキン橋など3本が完成した。マグウェー地域では沈下橋が定着した。
JIPには、なおも全国100カ所以上から建設要望が届き、大半を踏査して必要性を確認している。しかし、すべてに応えるのは難しい。「現地の技術者が自ら計画、設計施工、維持管理できるように」との思いが根底にあるからこそ、技術者の育成を見据えたワークショップに力点を置く。ミャンマー地方道路開発局の技術者らには毎年2回ほど日本の橋梁建設事例を紹介している。学生にも沈下橋の現場を見せるなど技術指導に注力している。そのかいあって、19年度にはマグウェー地域を管轄する政府から自己資金約2億3000万円で建設したいとの要望を受け、JIPが事前調査し、8カ所に沈下橋を建設することになった。詳細設計までをJIPが行い、その後は地域政府が中央政府の建設省農村道路開発局に工事を委託した。
新型コロナウイルスによる海外渡航制限、軍事政権によるクーデターなど不安定な情勢が続こうとも、地元住民は橋の完成を心待ちにしていたという。それは「ブリッジという言葉に橋という意味だけでなく、人との架け橋になる大きな力があるからだ」。途上国では「オール・オア・ナッシングではなく、水に浸かっても、安くつくれる“中間”があってよい。いずれ経済が発展し、自力で大きな橋をつくり直す時がくれば」と願う。自らを“落ち穂拾い”と称するように、将来的な段階的整備を見据え、サポート役に徹する。
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