【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第7回(上)大倉精神文化研究所(横浜市大倉山記念館) | 建設通信新聞Digital

4月20日 土曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第7回(上)大倉精神文化研究所(横浜市大倉山記念館)



◆建築家 隈研吾さんに聞く/遊び場だった不思議な建築
横浜市港北区にある「横浜市大倉山記念館」は1932年、実業家で教育者・思想家の大倉邦彦が「大倉精神文化研究所」として開設した東西精神文化の研究・実践施設を前身とする。81年に横浜市に移管されて現在の名称になった。設計者の長野宇平治は大倉の思いをギリシャ文明以前の「プレ・ヘレニック様式」で形にした。建築家の隈研吾さんは小さいころ、生まれ育った自宅近くにあったこの研究所の周りでよく遊んだ。子どもの目にはただ不思議な建物として脳裏に焼き付いていたという。

幼かった隈研吾さんにとってその建物はただ不思議だった。いつの時代のものなのか、見たことのない建物。洋風でも和風でもない。これが外国にある古代の神殿なのか。その建物は、横浜市の自宅すぐそばの丘陵、大倉山に建っていた。大倉山とその山裾に広がる農家、田畑、ため池などは子どもたちの格好の遊び場だった。東京・田園調布の幼稚園から電車で帰ってきて、オニヤンマを追っかけ、ザリガニを取り、山を登って不思議な建物の周りで遊んだ。田んぼの一画では新幹線の新横浜駅の工事が始まろうとしていた。隈さんの原風景は、こうした典型的な里山だった。

小学校時代の隈さん。神奈川県の海水浴場で妹の晶子さんと。このころ、自宅すぐそばの大倉山記念館周辺でよく遊んでいた。田園風景が広がりトンボやザリガニ取りが楽しかったという

建物の名称は、「大倉精神文化研究所」。文字どおり東洋・西洋の精神文化を研究し、伝統文化を学び心を鍛える場所として設立された。隈さんの自宅の大家は近くの農家で、幼なじみだったその大家の女の子の名前から「ジュンコちゃんち」と呼んでいた。隈さんは、ジュンコちゃん姉妹や近所の仲間数人と、大倉山のやぶをかき分けて登り、記念館によく遊びに行っていたという。

大倉精神文化研究所の平井誠二理事長にもらった1960年前後の記念館周辺の写真コピー、描き起こした地図を隈さんに見せると、「これ、うちの向かい側だ。この深堀っていうのが(医者だった)おじいちゃんの家。懐かしいですね。びっくりだ」とうれしそうに話してくれた。

◆原風景は農家が建ち並ぶ典型的な里山
場所に深く依存している樹木のような存在だと自身を語っている著書『僕の場所』(大和書房)に、自分を育んだこの里山の風景は詳しい。著書に関連して、「ジュンコちゃんち」について「農家というのは生産行為の場所。うちのようなサラリーマンの郊外住宅と違って、ジュンコちゃんの家は農作業の場所であって、ヤギやニワトリを飼って生産活動をしていた。その生産活動の場所の生き生きとした楽しさっていうのは格別でした」と解説する。この里山での経験は、いまの自分の建築や生き方に強く影響しているという。

昭和30年代の大倉山駅周辺(綱島街道方向)


同研究所の建物を設計したのは、長野宇平治。東京駅の設計で有名な辰野金吾の弟子に当たる。長野はこの建築を「プレ・ヘレニック様式」と命名した。特徴は、裾ぼそりの柱、円盤列、三角型空間、ロゼット、山形と螺旋文様の構成装飾など。初期に制作された机、いすなどの什器類もプレ・へレニックのデザインに統一している。

「建築を勉強し始めてから、設計した長野宇平治のことを知りました。大倉精神文化研究所はギリシャ文明以前の古代建築、古代のプリミティブな神殿のようなところがとても興味深い。クライアントの大倉さんは、東西の壮大な文化、歴史を探求したユニークでおもしろい方だったのだと思います。設計者との触媒作用による共同制作といえるでしょう。三角形の窓(三角型空間)、古代の神殿のイメージで言うと、バングラデシュのルイス・カーン設計の国会議事堂に近いものがあります。好きな建築ですね」

辰野金吾からはどうしたら大きな建築にもリズムがつくれるのか、そのコツを学んだのではないかと指摘する。「辰野は東京駅でれんがの間に白い石を挟むなど、リズムを刻むバランス感覚を見せている。建築は、大きくても小さくてもリズムをつくりさえすれば良いものになる」

30年ほど前、建築雑誌『新建築』の増刊号で「建築20世紀」というテーマの選者になって、建築史家の故鈴木博之さん、建築史家・建築家の藤森照信さんらと20世紀の代表的な建築を選ぶ中で、隈さんが大倉精神文化研究所を推して入れたという。「鈴木さんも、藤森さんも、『へー』という顔をされていましたが、思い入れがあったので強く推しました」

生まれ育った横浜市について、「里山の宝庫だと思うな。里山の麓に太古から人が住んでいたのではないでしょうか。近代化の象徴とされますが、横浜にはもっと原始的な側面があると思います」と分析する(つづく)。



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