【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第7回(下)大倉精神文化研究所(横浜市大倉山記念館) | 建設通信新聞Digital

4月29日 月曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第7回(下)大倉精神文化研究所(横浜市大倉山記念館)


エントランスホール。塔屋ステンドグラスから降り注ぐ黄金色の光

◆大倉精神文化研究所理事長 平井誠二さんに聞く/建物中央に「心」、左右に「知性」配置
大倉精神文化研究所は、佐賀県出身の実業家で教育者・思想家の大倉邦彦が私財を投じてつくった。一般の人も対象にした25万冊収蔵可能な図書館も併設され、本が高価だった当時としては貴重な施設だった。設計者は長野宇平治。長野は、ギリシャ文明より古い建築様式を取り入れ、「プレ・ヘレニック様式」と命名した。吹き抜けのエントランスホールに塔屋のステンドグラスから降り注ぐ黄金色の光、回廊式坐禅道場など、議論を尽くして大倉の思いを形にした。1981年に建物が研究所から横浜市に寄贈され、創建当初に忠実な大規模改修を実施、84年に横浜市大倉山記念館に名称を変更して市民利用施設となってからも、大倉と長野の思想が脈々と息づいている。

大倉精神文化研究所は、公益財団法人として大倉山記念館の中に事務所を置いて現在も活動を続けている。大倉邦彦は、自分が考えたことや学んだことで、社会の役に立つと思ったことはすぐに行動に移す「実践躬行(きゅうこう)」の人だったといわれる。同研究所理事長の平井誠二氏はこう話す。

「大倉邦彦は大正時代、大倉洋紙店の3代目社長に就任した時、同社の熱心な社員教育に携わる中で、子どものころからの教育の重要性を強く実感して、図書館を併設した研究所づくりを考えました。一般市民が誰でも自ら勉強して心を豊かに、強くして社会貢献できる立派な人を育成するのが目的です」

ホール(殿堂)入り口前


◆ギリシャ文明以前のプレ・ヘレニック様式
ギリシャ神殿風の外観を持つ研究所の建築は、この大倉の思いを形にしていることが強く伝わってくる空間になっている。「正面入り口を入って真ん中の吹き抜けのエントランス部分は当初、『心の間』と呼ばれていました。人間の心です。階段を上るとホールがあります。ここは『殿堂』といわれていて、信仰心を表す厳かな場所として教会、神社、寺のいずれにもあるようなつくりになっています。四方に木の柱がデザインとして立ち、上部に東洋の意匠である斗●(木偏に共)(ときょう)が設えられ、神仏への畏敬の念を表現しています」

エントランスの吹き抜けの塔屋壁面にはライオンと鷲の彫刻、ステンドグラスがはめ込まれ、ステンドグラスからは黄金色の光が差し込み、上部空間全体が金色に輝く。この中央部分の2階奥は現在市民のギャラリーになっているが、当初ここに坐禅道場があった。回廊式の道場で、西欧の修道院をイメージしたものだという。

「エントランスホールに降り注ぐ黄金色の光と殿堂で心を清らかにし、坐禅道場で心を強くして行動を促すということです。中央館の左右には図書館と研究室を配置して知識を得る。大倉が考えた研究所は、中心に心、左右に知性を配して全体で人間を表しています。こうした強く正しい心と豊かな知性を兼ね備えた人間を育てるのが究極の目的でした」

裾ぼそりの柱、円盤列などのプレ・ヘレニック様式は、建物の意匠全体に統一されているだけでなく、いすなどの什器類のデザインにも反映されている点が、この建物の価値を高めている。長野のプレ・ヘレニック様式の建築は大倉山記念館だけで他にはない。

建物正面の庭には日本列島の形に石を並べて、その内側に芝を張って樹木を植えた。大倉はこの庭を「地理曼荼羅」と名付けた。建物は人間、庭は日本、大倉山は世界、そう位置付けた。「人間が良くなれば日本が良くなり、世界が良くなる。人、日本、世界は3つで一つ」との考え方を示している。

◆プロジェクト概要

竣工当時の大倉精神文化研究所


▽施主=大倉邦彦
▽設計=長野宇平治
▽規模=SRC造3階建て延べ2989.63㎡、高さ25.45m
▽工期=1929年10月30日-1932年4月9日
▽プレ・ヘレニック様式=設計者の長野宇平治が命名。(1)裾ぼそりの柱(2)円盤列(3)三角型空間(4)ロゼット(5)山形と螺旋文様の構成装飾など。建物だけでなく初期に制作された机、いすなどの什器類もプレ・ヘレニックの統一デザイン
▽81年に研究所が建物を横浜市に寄贈、改修後、84年に「横浜市大倉山記念館」に名称変更。建物東館(右)で大倉精神文化研究所が活動を続けている
▽91年に横浜市指定有形文化財(設計図面、契約書、注文書、工事写真など建設関係資料4546点も2004年に同文化財)



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