旅先で不意に出くわす光景に驚かされたことは幾度もあるが、その中でもひときわ大きな衝撃を受け、その後も長らく考えさせられたものの一つが南部イタリアのマテーラの「石の街」の風景である。
1987年の夏、スイスのマリオ・ボッタ事務所での文化庁の研修を終え、家族を連れてイタリア半島を車でひたすら南下し、シチリアを目指していた。2人の子連れで、下の娘はまだ1歳になって間もない頃だった。インターネットなどのない時代の旅だったので、新しい街に到着してホテルを探すのは午後4時を過ぎないようにと心掛けていた。前泊したポンペイから半島を横断して“長靴”のかかとに当たるアルベロ・ベッロに向かおうとしたのだが、いささか距離があり過ぎる。なんとなくその中間で目についた街がマテーラだったのだが、恥ずかしいかな僕自身はその名前を知らなかった。
ホテルを見つけて車を停めて、まだ明るい夕暮れの市街に散策に出た。日中の火照りが和らいで日差しも傾いて街歩きにはちょうどいい頃合いだ。街そのものは比較的新しい大戦後のビルばかりであまり魅力的ではなかったのだが、ふと見ると街角のあちこちに「石の街?」みたいな案内表示がある。
思わず興味を引かれて矢印をたどっていくと、突如として路地の先に大きなくぼ地のような古い街並みが広がっていた。すべて土地の石で造られていて、起伏のある地形全体が無数の石の家で埋め尽くされている。しかし、不思議なことにまったく人影がない、まるでゴーストタウンのような風景だった。
曲がりくねった小道を子どもを乗せたバギーを押しながら歩いていくと、不意に風通しのよい三叉路で数人の家族が夕涼みをしているところに出くわした。お互いにびっくりして、思わず向こうから声をかけられる。
「一体お前さんたちはどこから来たんだね?」
「日本からです」
「そんなものを押して日本から来たのかい?」
「いや今はスイスに住んでいて、旅行中この街に立ち寄りました」
みたいなやり取りがあって、こちらが建築家だとわかると、彼らの住まいの中を案内してくれた。この街の歴史を聞くと、旧石器時代から人が住んだところで、街としても2000年くらい以前から続いたものだが、20世紀半ばに石の崩落の危険があるということで、市当局が住民を隣の土地に移転させ新しい市街を築いたという。さらに驚いた話は、住民のほとんどが引っ越した後、街は急速に崩壊し始めたというものだった。
日本でも古い民家が空き家になると荒れて茅葺き屋根が落ちたりするのはよくあるが、まさか石の家がそんなにたやすく崩れるとは、思いもよらなかった。街の下層は古い時代からの洞窟住居で、かろうじて入り口だけが造られたもの。その上は地下から掘り出した石を積み上げて築いた家屋になっており、さらに街の最上層では付近の岩山から切り出した、やはり同じ種類の石でできたれっきとした建築群が立ち並んでおり、その積層するすべてが一望の下に眺められるという極めて特徴的な土地である。
別れ際に一家の主人は階下の洞穴で作った自家製のワインと、子どもたち用にオレンジジュースをひと瓶ずつ分けてくれて、この不思議な石の街を引き上げた。
帰ってからもどうしてこの街が崩れたのかという疑問が頭の中をぐるぐる回っている。そうしてある時はたと思い至った。石の街を生かしていたのは、そこに住む人々だったのではないか。住民が日々せっせと必要なものを運び込み、不必要なものを運び去り、雨漏りなどちょっとした不具合があれば補修をし、腐った窓枠や木の扉などは取り替えて、せっせとこの家を生かしていたのではないか。
それはあたかも人体をめぐる血液のようなもので、ヘモグロビンがせっせと酸素を運び、二酸化炭素や老廃物を排せつしていたように、人々が家々を生かし続けていたのだろう。人々の住まなくなった家や街は、もはや血の抜けた人体に他ならず、長く生きながらえることはできなかった。
幸い、この街は現在では世界遺産に登録されて、今では旅行者や別荘を持つ人々などが戻ってきた。かつてと同じというわけにはいかないが、それでも人の生気の感じられる街の風景は、それだけで心和らぐ気がする。
写真は全て古谷誠章氏提供
このシリーズは、建築家の方々に旅と建築について寄稿していただいています。次回は津川恵理氏です。
そのほかの回はこちら