【記念シリーズ・横浜市公共建築】第31回 三溪園/建築史家・建築家・東京都江戸東京博物館館長 藤森照信氏に聞く | 建設通信新聞Digital

4月29日 月曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築】第31回 三溪園/建築史家・建築家・東京都江戸東京博物館館長 藤森照信氏に聞く

臨春閣は11年をかけて念入りに配置が考えられ、池に面して3つの棟を奥にずらしながら連結させた

 「日本の歴史的名建築の理想郷のようなところ」。建築史家、建築家の藤森照信氏は、横浜市中区の「三溪園」をそのように表現する。大好きな場所の一つだ。明治から昭和にかけて活躍した実業家・原三溪が、日本の古建築を京都や鎌倉などから移築し、広大な敷地に巧みに配置した日本庭園である。国の重要文化財が10棟ある。京都・燈明寺から移された室町時代の建築・旧燈明寺三重塔をランドマークとする外苑、藤森氏が「全身数寄屋造り」と評価する「臨春閣」を景観の中心とする内苑で構成される。その臨春閣が5年にわたる大修理を経て、17日から25日まで特別公開される。内部からの庭園の眺めも考えられた臨春閣で、藤森氏に三溪園の魅力などを聞いた。

藤森 照信氏

 ◆歴史的名建築の理想郷
 三溪園は17万5000㎡もの広大な敷地に、古くは室町時代にさかのぼり桃山時代を経て、江戸時代を中心とする古建築を移築した。京都の二条城内で江戸時代に建てられたといわれる「聴秋閣」を1922年に移築して全体が完成した。ことしで完成100周年になる。最初の移築は1905年、豊臣秀吉が桃山時代に建てた「旧天瑞寺寿塔覆堂」。三溪はその後、桃山時代にゆかりの建築や美術品を蒐集していったという。
 藤森氏はこう話す。
 「庭園を歩くと一見京都のような感覚を持つかもしれない。でも、京都にもこれだけ歴史的な名建築が集まっている所はない。日本ではここだけだと思う。原三溪さんは自分の好みで集めたのだが、非常に趣味が良くて、洗練されている。日本の歴史的名建築の理想郷のようなところだと思う」

◆御座船を思わせる「聴秋閣」に魅了されて
 建築史家にとって見どころが満載の庭園だが、中でも藤森氏が大好きなのが「聴秋閣」だという。聴秋閣は、徳川家光の上洛に際し、1623年に二条城内に建てられたと伝えられるもので、書院造りで茶亭の建築である。のちに家光の乳母であった春日局に与えられたという。入り口が一段低くなっているのが特徴で、これは水辺から舟で直接上がり込むための空間で、舟遊びを意識したものであったことが想像されると三溪園の公式ホームページに説明されている。
 「御座船という大名や将軍が乗る屋形船があるが、建物を実際に見たときにそのような船を意識したのだというのは本当だったのだと思った」
 意匠は、幕府の造営などに関わる作事方を務め、茶人でもあった佐久間将監によるといわれ、三つの屋根を組み合わせた外観から移築前は三笠閣と呼ばれていた。三溪はこれを聴秋閣と改め、周辺を秋に紅葉を楽しむ風情とした。

藤森氏が一番好きだという「聴秋閣」

 藤森氏が初めて三溪園を訪れたのは東京大学大学院生のころだ。研究分野の近代日本建築史の恩師、村松貞次郎氏が横浜市の都市計画に関わっていた縁で来たのだという。
 「原三溪が横浜の近代をつくった生糸の会社経営者だということは知っていたが、近代建築を勉強していたので三溪園の建築はこういう建築があるのだなという程度だった。それよりも生糸会社の建物がアールヌーボーの様式で建てられていたことを知っていて、この時はもう建物はなかったが、そちらの方に関心があった。学生だった当時、生糸の会社で財を成した人が古建築の庭園を横浜でつくっていることが不思議に思えた。後になって、明治の財界人がお茶に入れ込んでいたことを知って納得できた」
 臨春閣は、歴史上ほとんど残っていない貴重な数寄屋造りの建築だ。
 「日本の住宅は寝殿造りがあって、それが発達して書院造りになって、書院造りができた時点で千利休が茶室をつくる。それで、書院造りが茶室の影響を受けて数寄屋造りが生まれた。江戸時代には書院造り、数寄屋造り、茶室の三つが併存して、基本的にはそのまま現代につながっている。茶室や書院造りは情報があって成立過程は分かっているが、数寄屋造りは現存する建物が初期のものとして桂離宮だけで、その後がずっとなく、途中にこの臨春閣があるくらい。それほど歴史は古くないけれど、どう成立したかよく分からない。数寄屋造りは無駄なものをそぎ落としてシンプルに薄く、細くつくるもので、火にも弱いから管理が大変でなかなか残らなかった。この臨春閣は、どこにも長押(なげし)が回っていないことからも、まさに『全身数寄屋造り』といえる貴重な建物になる」
 数寄屋造りは歴史の文脈で見るのは好きだが、自分自身が建築家として数寄屋の美学で設計をすることはないだろうと話す。「(設計しないのは)数寄屋造りは、畳割ということもあってほぼ完成している様式なので、何か新しいことをやろうと思っても難しいから。(ドイツの建築家の)グロピウスが初めて桂離宮を見たとき、コルビュジエに手紙を書いていて、『自分たちのやろうとしていたことは既にここでやられている』という内容だった。数寄屋造りはそれほど完成した建築だった」

 臨春閣の配置については「入り口から順に見ていくと一本の軸を通す視線を持ちながら、随所で崩していくことを意識したことが分かって、さすがだなと思った。古美術が好きで書画をたしなんだ三溪にとって、庭の造形はあえて勉強はしなくても大体理解できていたのではないかと思う。庭づくりの原則は、石庭とは違って浄土庭園といって極楽をイメージしている。阿弥陀如来がどこかに置いてある感じがあって、三溪園もそれをわきまえてやっておられる」と述べる。
 自然や文化が地域や国の誇りを象徴するのだと言う。
 
 「その国、その地域に暮らす人は自分たちの場所、生きている時代に誇りを持つということがとても大事なこと。その誇りを象徴するのが自然や文化だ。三溪園はまさに地域にとっての象徴。誇りをつないでいく場として大事な働きをしている」

庭園の眺めも考えられた臨春閣の窓

実業家・原三溪による日本庭園

三溪園外苑(三重塔と舟)

原三溪

 生糸貿易により財を成した実業家原三溪によって、1906(明治39)年5月1日に公開された。東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手によって1902(明治35)年ごろから造成が始められ、1914(大正3)年に外苑、1922(大正11)年に内苑が完成した。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれた。その後、戦災により大きな被害を受け、1953(昭和28)年、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っている。
(三溪園ホームページから抜粋)

 

 

 

 

【施設】
〈外苑施設〉
鶴翔閣・旧原家住宅(明治時代1902年、横浜市指定有形文化財)、林洞庵(1970年)、横笛庵(建築年不明)、旧燈明寺三重塔(室町時代1457年、重要文化財)、旧燈明寺本堂(室町時代、重要文化財)、旧東慶寺仏殿(江戸時代初期、要文化財)、旧矢箆原家(きゅうやのはらけ)住宅(江戸時代後期、重要文化財)
〈内苑施設〉
臨春閣(江戸時代1649年、重要文化財)、白雲邸(大正時代1920年、横浜市指定有形文化財)、旧天瑞寺寿塔覆堂(桃山時代1591年、重要文化財)、月華殿(江戸時代1603年、重要文化財)、金毛窟(大正時代1918年)、天授院(江戸時代1651年、重要文化財)、聴秋閣(江戸時代1623年、重要文化財)、春草廬(江戸時代、重要文化財)、蓮華院(大正時代1917年)、御門(江戸時代1708年、横浜市指定有形文化財)

 

◆動画ニュース配信中
動画で紹介。ご視聴はこちらから