「そこに行くと誰かに会える。その場所がみんなの心のよりどころになっていて、新しいコミュニティーが生まれていることがすばらしいと思います。そして木でできた建物の中にいると本当に心が落ち着きます」。2016年4月14日に発生した熊本地震で、熊本市の自宅が被災したタレントのスザンヌさんは震災後、ボランティアで炊き出しに参加した益城町と南阿蘇村で、「みんなの家」に出会ってそんな印象を持ったと言う。みんなの家は、建築家の伊東豊雄さんが東日本大震災の仮設住宅で初めて設計した集会所だ。仮設住宅にも木が多く取り入れられていて、「心が温かくなりました」と話す。著名人としての影響力を生かして、震災直後からSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を使って有用な情報を積極的に発信もしている。
スザンヌさんは地震発生の時、子どもを熊本市に住む母に預けて、仕事で福岡市にいた。
「強い『前震』の後、熊本市の実家に連絡して、迎えに行くねと伝えたんです。そしたら本震が来て、高速道路も通行止めになってしまって。それでも一般道を通って、普通は1時間半くらいの道のりを9時間ほどかかって帰りました。父母、子ども、妹、祖母が近くの中学校の体育館に避難して全員無事でほっとしました」
避難所の様子をこう話す。
「着いたときは地震直後で物資もまだ届いていなくて、子どもさんのいる方が気を遣っていましたね。その後は、少しずつ、お子さんとお年寄りの距離を離したり、パーテーションで仕切ったり体育館の中も変わっていきました。配膳係、掃除係などの役割が自然に決まっていったのは素晴らしかったです」
震災後はしばらく情報が混乱していたことから、スザンヌさんはSNSを使って避難生活を送っている人に有用な情報を発信していった。
「こういうお仕事をさせていただいていますので、多くの方に拡散ができるかなと思いまして。例えばペット連れの方の受け入れ施設、無料開放されている温泉など、慎重に確認をしながら紹介をさせていただきました」
地元のラーメン店の友人が益城町と南阿蘇村の仮設住宅に炊き出しに行ったときに、スザンヌさんもボランティアで参加。このときに完成したばかりの「みんなの家」を初めて知った。
「炊き出しは、笑顔が少しでも増えてくれれば良いなあ、と思って参加しました。芸能界のお友だちもたくさん協力してくださいました。炊き出しをやっていたすぐ近くにみんなの家がありまして、益城町も南阿蘇村も手芸教室が開かれていました。皆さん、楽しみにされているのが分かりました」
「そこに行くと誰かに会えるというのが素晴らしいですよね。手芸教室のようなイベントでも出会いがありますが、何もない時に行っても誰かが待っていてくれる、そんな場所だと思います。仮設住宅は高齢の方も多く、毎日各戸を回ってお声掛けをされている方がいらっしゃいましたが、そこにこういう集会施設のみんなの家があると、落ち込んでいるときでも希望を見出せるのではないでしょうか。みんながそこを好きになって、大切に守っていきたいという雰囲気が伝わってきました。素敵なプロジェクトだと思います」
木でつくられた建物と人の気持ちについてもこう話す。
「木造のみんなの家に居ると気持ちが落ち着きます。仮設住宅も全部ではないのですが、木でつくられたものもたくさんありました。プレハブの仮設住宅でも木のモチーフがあったり、玄関が木でできていたりするものがありました。木のぬくもりがあると心も温かくなるんですよね。寒さの厳しい冬なども、木の空間があると気持ちが和らぐと思います」
熊本地震での「みんなの家」は、1988年から続いている「くまもとアートポリス事業」(現在のコミッショナーは伊東豊雄さん)の一環として実施。62団地に84棟の「みんなの家」が整備された。
小さいころ、家族と一緒に行った大好きな場所が阿蘇の「萌の里」という農産物の直売施設。
「熊本は自然の多いところで、小さいころ楽しみだったのが農産物直売場兼観光施設の『萌の里』に行くことです。きれいな花畑などがあって、ここに家族と一緒に行って、草スキーをして、馬に乗って、ソフトクリームを食べて帰ってくるんです。これが休日の過ごし方で、今でも忘れられません。震災後は移転して営業しているのですが、復興したらぜひまた行ってみたいですね」
くまもとアートポリス事業は、後世に残り得る優れた建築物をつくることなどを目的に1988年から始まった。東日本大震災でのみんなの家プロジェクトの展開は初の県外事業となった。熊本県内でのみんなの家プロジェクトは、東日本大震災翌年の2012年、熊本広域大水害で被災地に設置されたのが最初。
東日本大震災発生後の11年5月、伊東さんは「『みんなの家』を描こう」という提案を発表した。そこでは、仮設住宅での「非人間的な極限状態の生活」を指摘し、極限状態でも人は集まり、何らかのコミュニケーションを交わそうと試みる現実の姿を見たと語る。これを伊東さんは公共建築の最も原初的な形と述べた。そして建築家ならもう少し美しく、もう少し居心地良くすることができるはずだと考えて、この始原の建築を「みんなの家」として提案した。人々が語り合う共同のリビングルームとして、自らの家を失っても「私の家」が戻ってきたように感じたという。
「強い『前震』の後、熊本市の実家に連絡して、迎えに行くねと伝えたんです。そしたら本震が来て、高速道路も通行止めになってしまって。それでも一般道を通って、普通は1時間半くらいの道のりを9時間ほどかかって帰りました。父母、子ども、妹、祖母が近くの中学校の体育館に避難して全員無事でほっとしました」
避難所の様子をこう話す。
「着いたときは地震直後で物資もまだ届いていなくて、子どもさんのいる方が気を遣っていましたね。その後は、少しずつ、お子さんとお年寄りの距離を離したり、パーテーションで仕切ったり体育館の中も変わっていきました。配膳係、掃除係などの役割が自然に決まっていったのは素晴らしかったです」
震災後はしばらく情報が混乱していたことから、スザンヌさんはSNSを使って避難生活を送っている人に有用な情報を発信していった。
「こういうお仕事をさせていただいていますので、多くの方に拡散ができるかなと思いまして。例えばペット連れの方の受け入れ施設、無料開放されている温泉など、慎重に確認をしながら紹介をさせていただきました」
地元のラーメン店の友人が益城町と南阿蘇村の仮設住宅に炊き出しに行ったときに、スザンヌさんもボランティアで参加。このときに完成したばかりの「みんなの家」を初めて知った。
「炊き出しは、笑顔が少しでも増えてくれれば良いなあ、と思って参加しました。芸能界のお友だちもたくさん協力してくださいました。炊き出しをやっていたすぐ近くにみんなの家がありまして、益城町も南阿蘇村も手芸教室が開かれていました。皆さん、楽しみにされているのが分かりました」
「そこに行くと誰かに会えるというのが素晴らしいですよね。手芸教室のようなイベントでも出会いがありますが、何もない時に行っても誰かが待っていてくれる、そんな場所だと思います。仮設住宅は高齢の方も多く、毎日各戸を回ってお声掛けをされている方がいらっしゃいましたが、そこにこういう集会施設のみんなの家があると、落ち込んでいるときでも希望を見出せるのではないでしょうか。みんながそこを好きになって、大切に守っていきたいという雰囲気が伝わってきました。素敵なプロジェクトだと思います」
木でつくられた建物と人の気持ちについてもこう話す。
「木造のみんなの家に居ると気持ちが落ち着きます。仮設住宅も全部ではないのですが、木でつくられたものもたくさんありました。プレハブの仮設住宅でも木のモチーフがあったり、玄関が木でできていたりするものがありました。木のぬくもりがあると心も温かくなるんですよね。寒さの厳しい冬なども、木の空間があると気持ちが和らぐと思います」
熊本地震での「みんなの家」は、1988年から続いている「くまもとアートポリス事業」(現在のコミッショナーは伊東豊雄さん)の一環として実施。62団地に84棟の「みんなの家」が整備された。
小さいころ、家族と一緒に行った大好きな場所が阿蘇の「萌の里」という農産物の直売施設。
「熊本は自然の多いところで、小さいころ楽しみだったのが農産物直売場兼観光施設の『萌の里』に行くことです。きれいな花畑などがあって、ここに家族と一緒に行って、草スキーをして、馬に乗って、ソフトクリームを食べて帰ってくるんです。これが休日の過ごし方で、今でも忘れられません。震災後は移転して営業しているのですが、復興したらぜひまた行ってみたいですね」
◆バラエティー番組を中心に雑誌・CMなど幅広く活躍。熊本県宣伝部長も務める。
現在は熊本在住で仕事のたびに東京・大阪などを行き来しながら子育てに奮闘中。ブログやインスタグラムなどのSNSも人気。
■伊東豊雄さんが描いた「みんなの家」
くまもとアートポリス事業は、後世に残り得る優れた建築物をつくることなどを目的に1988年から始まった。東日本大震災でのみんなの家プロジェクトの展開は初の県外事業となった。熊本県内でのみんなの家プロジェクトは、東日本大震災翌年の2012年、熊本広域大水害で被災地に設置されたのが最初。
東日本大震災発生後の11年5月、伊東さんは「『みんなの家』を描こう」という提案を発表した。そこでは、仮設住宅での「非人間的な極限状態の生活」を指摘し、極限状態でも人は集まり、何らかのコミュニケーションを交わそうと試みる現実の姿を見たと語る。これを伊東さんは公共建築の最も原初的な形と述べた。そして建築家ならもう少し美しく、もう少し居心地良くすることができるはずだと考えて、この始原の建築を「みんなの家」として提案した。人々が語り合う共同のリビングルームとして、自らの家を失っても「私の家」が戻ってきたように感じたという。
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