【記念シリーズ・横浜市公共建築】第28回 横浜市市民文化会館〈関内ホール〉街に果たす役割を受け継ぎ最適化 | 建設通信新聞Digital

5月5日 日曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築】第28回 横浜市市民文化会館〈関内ホール〉街に果たす役割を受け継ぎ最適化

大ホール改修後(上)と改修前

 1986年に開館した『横浜市市民文化会館関内ホール』は、芸術文化の発信と交流の場として、長く市民に親しまれてきた。築後30年が経過したことを機に大規模改修工事を実施。モダニズム建築の名作を多く世に送り出した建築家、芦原義信の設計による建築の質やオリジナリティーを保持しながら、さまざまなジャンルのエンターテインメントをより快適に楽しめる空間として、2018年9月にリニューアルオープンしている。改修設計を担当した建築家で芦原太郎建築事務所所長の芦原太郎氏に、設計のポイントとともに、モダニズム建築の活用の在り方などを聞いた。 横浜の中心市街地として発展してきた関内・馬車道エリア。この開港以来の歴史が息づく街並みに大きく開かれたファサードは、関内ホールの持つ魅力の1つだ。
 「街に対する顔をどうつくっていくか、一生懸命考えていたのだと思う。外部空間や街並みについての研究が実作品に実践されている。音響や雰囲気を含めホールもオーソドックスにきちんとできている。公共ホールの優等生だなと感じる」と、その印象を率直に語りつつ、改修に当たっては「いまの時代に、いまの人びと、街にとって最良な答えを出す」という思いを込めた。
 なにより「モダニズムの建築家として機能、ファンクションを重視していたわけだから、僕らも極めてオーソドックスに機能面から次の30年に向けた関内ホールを考えた」とふり返る。
 開館以来、初めての長期休館を伴った大規模改修工事では、災害拠点施設としての機能を担保するため、大小ホールとエントランスの特定天井耐震化改修を中心に、施設全体の長寿命化対策として設備インフラを全面更新。さらに天井改修に合わせて大ホールの音響計画や舞台機構も更新するとともに、ホール客席を含め内外装をリデザインした。
 特に音響は「ホールにとって一番大事なこと」であり、「関内ホールはもともと音響の評判も良かったが、どうせ天井を変えるのなら地震対策だけでなく、より良い音になる天井にしよう」と永田音響設計と協働して最適解を求めた。
 ホール客席も「座席幅を広げ、椅子自体もグレードアップした。中央ブロックは千鳥配置に変更し、より気持ちよく見えるようにしている」などと、安全で快適に鑑賞できる環境を整えた。客席の色は「馬車道の赤レンガをイメージしたエンジ色に近い赤」に大胆に変更し、「ハレの場」としての高揚感も演出している。
 ファサードの雁行するミラーガラスの壁面は、街路樹からの木漏れ日をイメージさせる白のアルミのデザインパネルを西側に1面ずつ取り付けることで日射を遮へいしながら変化のある表情を見せている。エントランスの床仕上げも既存のレンガタイルから白を基調とした石張りに更新することで明るく来場者を迎え入れる空間とした。

改修後の外観全景(上)と改修前


 一貫するのは「意匠的な部分や空間の持つ質、オリジナルなものは尊重し、きちんと生かしながら、性能はより良いものにしていく」姿勢であり、「父の意識にあったのは、横浜の市民の、街の、都市のために役に立つ建築を一生懸命つくっていくという思いではないのか。その役割をいまの時代にできるだけうまく果たしていくために改修していく」という、受け継がれる思いだ。
 88年に「横浜市女性フォーラム」として開館した現在の『男女共同参画センター横浜フォーラム』も同様に、ホールとエントランスの天井耐震改修と設備更新などの改修工事を現在進めている。
 「さまざまな機能の中で古くなったところは更新し、性能をより良くできるところはより良くしていく。省エネ設計など時代の要請も取り入れて、次の時代にもうまく使えるように工夫を凝らしていくことはどちらも変わらない」とも。
 他方、「関内ホールも男女共同参画センターもそうだが、父の時代は手描き図面。これをすべてCADデータで書き起こすという、設計の前段での図面のCAD化には苦労した」と苦笑いしつつ、「そのCADデータをベースに、ファシリティマネジメントを展開していけば、いずれまた来る設備更新への対応をはじめ、維持管理の効率、能率を上げることにつながるのではないか」と提起する。
 パリの街がそうであるように、「都市の魅力を形成するには100年以上、200年、あるいは300年というスケールで時間を積み重ねていくことが大事になる」とした上で、「いまの時代の“いいね”を建築の形にして次の時代に引き渡す。それを受け継いだ方がもうちょっと変えていったらもっと良くなるかなと、その時代、時代で工夫していく。要は長い時間をどうやって継続させるか。ダイナミックな発想の転換をしながら、建築やインフラをうまく使いこなす、その使い方の知恵を社会なり街が持つ必要がある」と強調する。
 それは「結局は文化という言葉になる」とし、「横浜という都市が持つキャラクター、都市文化をみんなが大事にしながらうまくバトンをタッチしていく仕掛けをつくっていく。そのファシリテーターとしての役割を横浜市が担い、横浜オリジナルの制度なりシステムを継続的に動かしていく。これまでも都市や建築行政に先駆的に取り組んできたトップランナーだからこそ、全国にいい見本を示してほしい」と期待を寄せる。

◆親しまれ幅広く活用

ホワイエからエントランスホールを見る


 関内ホールが建つ場所には、1935年に開場した横浜宝塚劇場がかつて存在し、その建物を買収した市が70年から市民ホールとして活用。地域のシンボルとして市民に長く親しまれてきた。その後、老朽化により市民ホールは閉館し、86年に現在の関内ホールが開館した。
 JR・市営地下鉄関内駅やみなとみらい線馬車道駅から徒歩数分という立地の良さに加えて、さまざまな上演形態に対応できる1000席規模のホールを有する関内ホールは、落語などの寄席やミュージカル、コンサート、演劇のほか、ダンスや各種イベント、講演会など幅広く利用されている。

■改修工事概要
▽所在地=横浜市中区住吉町4-42-1
▽工期=2017年9月-18年9月
▽構造規模=SRC造地下2階地上5階建て
▽延べ床面積=1万0097㎡
▽設計=芦原建築設計研究所
▽施工(建築)=小俣・岡山建設共同企業体
▽施設内容=大ホール(1038席)、小ホール(264席)、リハーサル室(4室)、楽屋(大ホール4室、小ホール1室)、エントランスなど。横浜市青少年育成センター、店舗を併設

             

横浜市にみる建築家芦原義信の活動と功績 「都市美」実践へ行政、専門家と協働

 

 戦後、米国ハーバード大学大学院でバウハウスの精神に基づく建築デザインを学び、帰国後の1956年に設立した芦原建築設計研究所を拠点に自らの設計活動を通じて日本に正統派モダニズム建築を導入した芦原義信。その生涯に設計した建築は300を超える。なかでも横浜市とは縁が深く、「横浜市市場ポンプ場上屋」(59年)を皮切りに、最晩年の「上瀬谷住宅」(2002年)まで、40年以上にわたって数多くの建築を設計した。
 初の総合病院設計となった「横浜市立市民病院」(1960年)は、戦後の病院建築のモデルとして建築設計資料集成(日本建築学会編)に掲載され、第2回建築業協会賞も受賞。その後も増築や新設、改修などの設計を継続して担った。このほか病院では、「横浜市立港湾病院」(61年)、「横浜脳血管医療センター」(99年)も担当している。

横浜市立市民病院


 「平沼記念体育館」(70年)や「国際学生会館・瀬田地区センター」(94年)、また関内ホールと横浜市女性フォーラムなどの文化施設のほか、「横浜市老松中学校」(81年)、「北方小学校」(83年)、「大鳥中学校」(87年)、「本牧中学校」(93年)と学校施設も多く手掛けた。上瀬谷住宅など大型団地、さらには「南戸塚工場余熱利用施設」(76年)と、その仕事の幅が広いのも特徴といえる。

南戸塚工場余熱利用施設


横浜市女性フォーラム


本牧中学校


上瀬谷住宅


 「この仕事はぜひやりたい、こんな仕事はやりたくないということは一切なかった。クライアントのため、社会のため、次世代のために役に立つ、より良いものをと、頼まれたら断らず誠心誠意仕事をした」という父・義信の建築家としてのスタンスを述懐しながら、一方で「横浜市も自分たちの街や都市をどうやって良くしていくか、いろいろ先駆的な試みをやっていた。そうした中で継続的に仕事をさせていただいたことは建築家として幸せだったのではないか」とみる。
 独立して最初の作品となる「中央公論ビルディング」(56年)の設計に当たって、建築意匠の芦原義信(芦原建築設計研究所)と構造の織本匠(織本構造設計研究所)、設備の犬塚恵三(建築設備設計研究所)の3者で組成したコラボレーションチーム「アオイ組」は、「横浜市でもすべての仕事で協働し最後まで一緒にやることができた。いま芦原太郎建築事務所が設計する場合も建築、構造、設備を同じチームでやっている。これはすごくいいことだと思っている」と、独立したアーキテクトとエンジニアの信頼関係に基づく協働がより質の高い設計につながることを確信している。
 横浜市での活動は、個々の建築設計だけにとどまらない。人びとの生活を豊かにするフィジカルな建築的空間に着目した外部空間論を街並みのスケールに展開した「街並みの美学」研究を実践する場でもあった。「横浜市都市美対策調査」を79年から81年まで3年間にわたって受託し、80年には横浜市都市美対策審議会の委員会長に就いた。これらの調査や議論の成果を反映する形で85年に「横浜市新本牧地区計画」が策定されている。
 「行政として都市美という概念をいち早く打ち出した、その先駆けを一緒にやらせていただいた」という、その取り組みは、経済の論理一辺倒ではない、地域の生活に根ざした市民参加によるボトムアップのまちづくりへの底流となっている。
 芦原建築設計研究所は、2013年に建築作品や芦原義信の活動資料など約20万点の建築資料を武蔵野美術大学に寄贈。これをもとに17年に「芦原義信建築資料アーカイブ」が同大学に完成した。これを契機として同研究所は一級建築士事務所登録を廃止し、芦原太郎建築事務所に事業譲渡した。研究所は不動産運用収益を原資として、「街並みの美学」研究の継承と展開を図っているほか、次世代育成を支援する「街並みの美学トラベルスカラシップ」の運営などの文化的事業に取り組んでいる。これまで設計した建築の維持管理やメンテナンスなどに関わる業務は、芦原太郎建築事務所が対応している。



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