【動画・けんちくのチカラ】ジャーナリスト 田原 総一朗さん「彦根城」 | 建設通信新聞Digital

5月3日 金曜日

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【動画・けんちくのチカラ】ジャーナリスト 田原 総一朗さん「彦根城」

 

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◆ジャーナリストへの契機、彦根市民矜持の象徴

 幼少期に祖母から何度も聞かされた言葉、太平洋戦争と朝鮮戦争での度し難い価値観の逆転、大学時代に挫折した小説家への夢--。振り返れば、この三つのエポックが自分をジャーナリストの道に導いたのだと思う。祖母が何度も口にしたのは、生まれ育った滋賀県彦根市の歴史を背負った的確な言葉で、田原総一朗さんをはじめ彦根市民共通の誇りにつながっている。その象徴と言えるのが、国宝の天守を持つ「彦根城」である。子どもの頃、両親に連れて行ってもらうのが楽しみだった。「何でこんなに階段が多く、石垣が急峻(きゅうしゅん)で高いのだろうかと思っていました」。高校は城内にあって、所属していた野球部では毎日この階段でトレーニングをしていたという。

◆幼少期に祖母から聞かされた言葉/二度の戦争による価値観逆転への疑問

 「お前は大きくなっても政治の世界や役人の世界には行けないよ。今は薩長の世の中。彦根藩は薩長の敵だから」。これが祖母のよく言っていた言葉だ。幕末の彦根藩主で江戸幕府の大老だった井伊直弼は、欧米列強に対して開国の道を選び、日米修好通商条約を結んだ。この政策と薩長の尊王攘夷が相いれないものだったから、体制側の人間にはなれないと祖母は言っていたのだ。
 「この時代から自立か対米従属かという議論が続いています。明治になって作家の司馬遼太郎は井伊直弼を国賊と決めつけた。しかし、開国をせずに戦っていたら日本は米国の植民地になっていたはずです。そんな井伊直弼を郷土の誇りとしてなんとか守りたいという気持ちがありました。日本のジャーナリズムは自立派が主流ですが、僕は今も日米同盟は大事だと思っています。井伊直弼の考え方は今も僕の原点と言え、心の支えとなっています」

圧倒される高さの天秤櫓の高石垣

 自宅からは、彦根城の天守がよく見えた。時にはその天守を仰ぎ見ながら語る祖母の言葉は、まだ幼かった田原さんの耳に残り、その後、歳を重ねるにしたがって井伊直弼を再考し評価するきっかけになった。

 江戸幕府が開かれた1603年から建築が始まり、22年に完成した。築城主は井伊直継。井伊氏14代にわたる居城となった。建築としての強い印象は急峻な石垣だという。「あの美しい天守に急な城壁は邪魔ですよね。高いところでは20mほどもある崖になっています。敵から守ることを第一に考えた城だということが分かります。幕末には薩長の敵になってしまって、彦根の人たちは生きていくのが大変だと思ってきました。それが逆に彦根に対する強い思いになるわけですね。出身の彦根東高校は元藩校で城内にありました。野球部だったので、城内の階段を毎日駆け上がってトレーニングをしていました。彦根東高校を誇りに思っています」

野球部のトレーニングでは城内の階段を毎日駆け上がっていた

 実家は絹糸問屋などを営む商家だった。戦前は士農工商の身分の名残があって「親父は、平民、平民といじめられたと言っていましたよ」と話す。
 「城下町なので武家屋敷だった地域がかなりありまして、そこは自由に家を建てられなかったと思います。士族の人たちが住む地域で、ここはほとんど同じようなつくりの家が並んでいました。僕の家は平民ですから自由なつくりでした。道路に面して縁側、奥に庭がありましたね。地域のつながりが非常に密接で、終戦まで昼飯を自分のうちで食べたことがほとんどなく、近所の家で食べていました。困ったときに助け合うコミュニティーが戦前まであった。戦後、それがなくなって生きづらさを感じました」


 

  

終戦の年、小学校5年生の田原さん

 小学校5年生の夏休みに玉音放送を聞いた。「1学期の社会科の時間にアジアを解放するために戦争に行って役割を果たすべきだと教えられたのに、2学期には『あの戦争は間違いで絶対にやってはいけない』と先生もマスコミも180度違うことを言った。さらに高校生になって朝鮮戦争が始まって、僕が『戦争反対』と言ったら先生から『ばか者』と怒鳴られました。これでもう、偉い人の言うこともマスコミも信用できないと思いましたね。中学生の頃から小説家になりたくて、当時、作家がたくさん出ている早稲田大学に進みましたが、石原慎太郎と大江健三郎を読んで、これはかなわないと諦めたこともあって、真実を語れる本物のジャーナリストになろうと思ったわけです」
 東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクター時代には、他のテレビ局がつくれない過激な番組を次々とつくった。その一つに1969年7月に早稲田大学4号館で収録した「山下洋輔乱入ライブ」がある。2021年にこの4号館が「村上春樹ライブラリー」として隈研吾さんの設計でリニューアルオープンした。村上さんは、この乱入ライブを覚えていて、22年に「再乱入ライブ」として大隈講堂を使って公開で再現した。
 「当時、山下さんは有名なジャズピアニストだったのであなたのドキュメンタリーを撮りたいと持ちかけた。どういう状況でつくるのがいいかと聞くと、『ピアノを弾きながら死にたい』というわけ。じゃあやりましょうと、学生運動の過激派セクトの拠点だった早稲田大学4号館で、そのセクトが集会で留守の隙を狙って別のセクトを集めてライブを挙行しました。そこにあるじが戻ってきてゲバルト(抗争)になるというストーリーです。しかし、山下さんの演奏にみんなが聞き入って、まったくゲバルトにはならなかった。演奏に相当迫力があったのでしょうね。山下さんに聞くと今でもあの演奏が一番思い出に残っていると言われます」
 彦根城は田原さんの思想を支える象徴的な建築といえる。最後にそうした建築が人に与える影響について聞くと「とても大きいと思う。建築は長く残るものですからね。世界をうならせる建築をつくるというのは面白いでしょうね」と話してくれた。

国宝の天守。4面のどこから見ても濃密なデザインが特徴だ


◆難攻不落の「登り石垣・高石垣」で築城/名城大学助教 米澤 貴紀氏に聞く

 「4面のどこからでも見応えのある密度の濃いデザインで、権威を示す華麗な姿と言えますね」。名城大助教の米澤貴紀さんは、彦根城の天守の魅力をそう話す。日本建築史が専門で『日本の名城解剖図鑑』(中川武監修、エクスナレッジ)の著書もある。彦根城は、大津城を移築したと言われ、五重4階だった天守の入母屋破風(いりもやはふ)など多様な屋根を三重3階に圧縮したこともあって、その濃密さが美しさを生み出しているのだという。希少な国宝の一つである。美しさと合わせてもう一つの特徴は、堅固であること。「『東国』と『西国』の境目にあって徳川幕府にとって防衛の要だったため、登り石垣、高石垣などで築城され、難攻不落の城そのものと言えます」

 関ヶ原の戦いの軍功で石田三成の居城を得た初代彦根藩主・井伊直政は、新たな城として彦根城を計画したが、戦傷で死去。子の直継(なおつぐ)の代に継承され築城された。その後、井伊家14代の居城となった。彦根市出身の田原総一朗さんが心の支えだという井伊直弼は13代目だ。
 米澤さんは華麗な天守をこう話す。
 「小振りですが切妻破風(きりづまはふ)、入母屋破風、千鳥破風(ちどりはふ)、唐破風(からはふ)と多様な破風屋根が3層に複雑に積み重なって、豪華な外観をつくり出しています。どの面から見てもそれが目に入ってきます。加えて破風板につけられた金の金具や懸魚(げぎょ)などが華やかさを増幅しています。さらに特徴的なのは、付櫓(つけやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)が天守正面の1層目に連なって一体になっている点です。二つの櫓で敵の攻撃を防ぐ目的があるのですが、多聞櫓から付櫓、天守へと視線を誘導されるため、デザイン面でも優れていると思います」

 遺構として貴重なのが馬屋だ。城の中にこれだけの規模の馬屋が残っているところは他にはない。東西25m、南北31mの長い建物になる。現在は駐車場になっているところに現存する。「20頭ほどの馬を入れられる大きさです。日常的に命令を伝えたりするために使っていたのだと思います。畳敷きの『遠侍(とおさぶらい)』の詰め所も残っています」

 田原さんが子どもの頃、「なんでこんなに階段が多くて石垣が急なのだろうか」と思っていたという防衛面で最も特徴的なのが「登り石垣」である。城が建つ彦根山の斜面に平行に石を積む当時の最新軍事技術で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の倭城で開発されたものだ。
 米澤さんは「登り石垣だと斜面の横移動ができないので、攻め上がってくる兵隊を一定の区画に集めることができます。斜面に合わせて崩れないように積むのは難しいと思います。本丸側にある左右非対称の天秤櫓(てんびんやぐら)の高石垣は圧倒される高さを持っています。籠城時には天秤櫓手前の堀切に架かる木橋を落とせば、外部からの侵入を防ぐことができます」と話す。堅固な城づくりへの思いが石垣から強く伝わってくるという。

(たはら・そういちろう)1934年滋賀県彦根市生まれ。早大文学部卒業。岩波映画製作所、テレビ東京を経て77年フリーに。テレビ朝日系で、87年より『朝まで生テレビ』、89年より2010年3月まで『サンデープロジェクト』に出演。テレビジャーナリズムの新しい地平を開いたとして、1998年ギャラクシー35周年記念賞(城戸賞)を受賞した。2010年4月よりBS朝日にて『激論! クロスファイア』を開始。02年4月より母校・早大で「大隈塾」を開講し、未来のリーダーを育てるべく、学生たちの指導に当たる。05年4月より17年3月まで早大特命教授。19年ATP賞特別賞、22年日本外国特派員協会「報道の自由賞」を受賞。近著に『日本という国家』(御厨貴 共著 河出書房新社)、『堂々と老いる』(毎日新聞出版)、『さらば総理―歴代宰相通信簿』(朝日新聞出版)

  



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