建築史のパートの監修を担当した「猪熊弦一郎博覧会」展(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)が4月12日に始まった(7月6日まで)。猪熊は1902年に高松市で生まれ、画家として活躍するだけでなく、今なお使われている三越の包装紙「華ひらく」などのデザインも手掛け、約20年間ニューヨークに拠点を置いた国際派のアーティストとして知られている。

では、なぜ建築史と関係あるのか。彼は1936年に小磯良平や脇田和らと新制作派協会を結成した後、1949年には建築部を創設したからだ。猪熊は疎開先の相模湖畔で山口文象(1902-78年)と親しくなり、芸術家村を構想し、彼と相談しながら、岡田哲郎(1901-83年)、谷口吉郎(1904-79年)、前川國男(1905-86年)、吉村順三(1908-97年)、丹下健三(1913-2005年)、池辺陽(1920-79年)をメンバーに迎えている。現在から見ると、巨匠が名を連ねていることに驚かされるが、当時彼らはまだ30代-40代の若手であり、むしろあまり記憶されていない年長の岡田の方が『建築文化』で小特集が組まれていたように、実績のある建築家だった。
そもそも新制作派協会の小磯がつないだことで、1950年に神戸で開催された日本貿易産業博覧会の会場計画や各パビリオンの仕事が建築部に依頼されている。そして山口の序曲館、丹下の第二生産館、池辺の第一通商館など、彼らの最初期の作品が誕生した。また猪熊が紹介したことで、山口は高松市美術館(1949年)や久ヶ原教会(1950年)の仕事を得ている。吉村順三も猪熊の自邸(1971年)を設計し、猪熊の勧めで高松郊外の家(1980年)を手掛けることになった。香川県庁舎(1958年)は、猪熊が同じ中学校の出身である金子知事に推薦したことで、丹下が選ばれている。
この建築のために、猪熊は陶画を制作し、やはり新制作派協会の建築部に参加した剣持勇が家具をデザインした。また谷口吉郎の慶應義塾大学生ホール(1949年)、帝国劇場(1966年)、東京會舘(1971年)には、猪熊の壁画やステンドグラスが組み込まれている。今回の展覧会では、こうした建築家と芸術家の交流に関する資料が数多く紹介されており、知られざる日本の近代建築史の背景が浮かび上がる。
新制作派協会の建築部の展覧会は、当時の『新建築』で紹介されていたように、一定の注目を集めていた。猪熊もわざわざ家具を出品し、建築部の展示にも参加していたことは興味深い。その一つは丹下の自邸(1953年)で使われていた寝椅子である。新制作派協会では、吉村や剣持も家具を出品し、池辺はキッチン・ユニット、山口は実寸大のモデルハウスを展示した。が、一方で前川は美術展に建築で参加することに違和感を覚え、すぐに出品しなくなった。
ともあれ、猪熊は建築に強い関心を寄せており、絵画、彫刻、建築が一体化する生活造形を目指していた。今回の企画では彼が所有していた建築の本や建築雑誌、また米国で撮影した最新の現代建築(シーグラムビル、ガラスの家、グッゲンハイム美術館の建設現場など)の写真も展示されている。ちなみに、猪熊がニューヨークに長く滞在するきっかけをつくったのは、米国でプロジェクトを抱えていた吉村だった。2人は、日本航空ニューヨーク支店など、インテリアの仕事で協働している。
こうした猪熊のネットワークについて、東北大の五十嵐研で巨大な年表を作成し、小さい文字も読めるように、双眼鏡付きで展示されているので、ぜひ会場で見ていただきたい。またホワイトキューブの展示空間をもつモダニズムの美術館としては、神奈川県立近代美術館(1951年)よりも早く登場した画期的な高松市美術館の模型も、研究室のメンバーで制作した。
ところで、猪熊弦一郎現代美術館(1991年)は、父と親しかったため、子どもの頃からよく知っていた谷口吉生に猪熊が設計を依頼したものである。ゆえに、今回の企画にあわせて、筆者と宮沢洋による建築の見所マップも作成した。展示の後は、建築と美術の長い交流の帰結として誕生した最大の作品、美術館そのものをじっくり鑑賞してもらいたい。