大変さは一人ひとりが100%
その日、日本橋の事務所内で東京支社長として「東日本大震災」を体験しました。担当の関東地区(特に栃木、茨城、千葉)でもかなりの被災をしており、しばらくの間はその復旧に奔走しました。
1年ほどたった2012年5月に、エンジニアリング会社として何かできないかと、各部門・事業部横断の「震災復興プロジェクト」を立ち上げました。震災当初、東北地方の早期復興に貢献するため役所や団体から情報収集を試みましたが、行政区分や組合などの関係でなかなか具体的には進みません。それでも月1回の情報共有する会議は続け、省庁や団体のプロジェクトへの協賛や社員食堂での東北食材メニュー提供、被災地産品購入、津軽三味線コンサートなどを企画・実行し、震災の風化防止や被災地の復興支援、社内での防災・減災情報の啓もう活動に変化してきました。
そのうち「東京にいてばかりではなく、被災地をとにかく訪問してみよう」という意見が出て、16年から被災地訪問が始まり、コロナ禍の1年を除いて現在も継続しています。初年度は、陸前高田~気仙沼~南三陸などを訪ね、その後、福島第1原子力発電所の原寸大の廃炉作業訓練施設訪問や浪江町から帰宅困難地域をバスで通過して特別な空気感を体感しました。
23年に訪れた福島のサッカーの聖地・J-ヴィレッジは特に印象的でした。原子力発電所事故における国の対応拠点として有名ですが、開設は1997年です。11面のサッカーグラウンドを持っていたため、震災復興拠点として大いに活用されました。もしここがなかったら復興への対応がどうなっていたか心配になるくらいです。しかしその場に立った時、何か奇妙な気持ちになりました。震災発生から14年も前に、事故のあった発電所から活動できるギリギリの20㎞圏内の海から近い割に津波の被害を受けない高台に、この広大な施設がなぜつくられたのだろうか? J-ヴィレッジには代表チームだけが練習できる天然芝の「神が宿る」ピッチというのがありますが、むしろJ-ヴィレッジそのものが、震災復興のために神が与えた場所のような気がしてなりません。
21年には、19年のラグビーW杯・復興スタジアムのある釜石を訪ねました。スタジアム近くの海辺にある旅館の女将(おかみ)もまた忘れられません。当然旅館も津波の被害を受け、女将は絶対の禁じ手「避難場所から海の方向に戻る」ことをしながら奇跡的に助かっています。しかし、女将はそのことをほとんど語らず、裏山の車いすのための避難路整備や、環境に徹底的に配慮した街づくりなど将来の発展に目を輝かせます。厳しくつらい体験を話してくれる語り部さんが多い中、いきなり“SDGs(持続可能な開発目標)”という言葉が出てきてびっくりさせられたのを鮮明に覚えています。当社は現在も避難路整備事業などにわずかながらですが支援を続けています。
2年前「震災復興プロジェクト」はいったん解散。現在サステナビリティ関連部署に業務を移管して活動は継続し、昨年は初めて「能登」を訪ねました。東日本大震災は確かに実体験の中では文字どおり未曽有の災害ですが、被災者の方々の大変さは、災害“全体”の規模の大きさ、被災者の数、倒壊家屋の割合などではなく、一人ひとりにとっての被災が100%なのだと思います。
継続して被災地を巡ると、良くも悪くも変わっていくものと変わらないものがあります。当社では現在事業継続マネジメントシステム(BCMS)を展開していますが、これからも社内外でさまざまなことを発信、共有して、防災・減災・復旧・復興に役立てたいと思います。
