初めての世界旅行は二十代半ば。一般の海外渡航が解禁された翌年、1ドルが360円の時代だ。独学の身、アルバイトで貯めた金がすべて消える。現地の情報も何もない。不安はあったが、いまだ見ぬ世界への衝動が勝った。育ての親である祖母も「自分への投資を惜しむな」と背中を押してくれた。覚悟を決めた。
横浜から船でナホトカへ渡り、シベリア鉄道でモスクワへ。レニングラード(現サンクトペテルブルク)を経て北欧から西欧、南欧へと巡った。帰路はマルセイユから貨客船に乗り、アフリカ、インド、東南アジアを経て神戸へ戻る。7カ月にわたる地球半周だ。
主目的はもちろん古今の名建築を自分の目で確かめること。北欧のモダニズムから、南欧の古典まで、無我夢中で歩いた。各地の集落では、時間を超えて佇(たたず)む素朴な住居に、ときに壮大な宗教建築に勝る根源的な力を感じた。
だが、それらの建築巡礼の興奮以上に直截で本能的な昂(たかぶ)りを覚えたのは、その途上で触れた「世界」だった。海と空を二分する水平線。車窓から1週間眺め続けたシベリアの大地。モスクワでは赤の広場の圧倒的なスケールと軍隊の行進に息をのみ、その裏で質素に暮らす市民の生活を垣間見た。インドではガンジスの岸辺で生と死が混然一体となる光景に立ち尽くした。身体で感じる地球–。それは緊張と感動、驚きと興奮に満ちていた。
パリに着いたのは、秋口だったと記憶している。世界に目を向けるようになったそもそものきっかけが、古書街で見つけたコルビュジエの作品集だった。夜な夜な図面のトレースを繰り返すうちに、闘って自らの道を拓いた巨匠の生き様を知った。その空間を自分の身体で確かめたい。そんな強い思いを抱いてのパリ訪問だった。
ビガール地区で修行していた画家の友人のもとに身を寄せた。市内の住宅から学生会館、ポワシーのサヴォア邸まで–知る限りを繰り返し訪ね、空間を身体に刻んだ。同時に、コルビュジエが挑んだパリの都市空間そのものに、次第に心を奪われていった。
シャンゼリゼから凱旋門へと延びる壮大な都市軸。その明晰(めいせき)な幾何学の背後で、裏通りには生活の匂いが濃密に息づく。計画と偶然、秩序と混沌(こんとん)。相反するものが同時に存在する世界の奥行き。当時の私に都市を論じる術(すべ)はなかったが、なぜ多くの芸術家がパリを目指すのか、その理由は身体で理解した。
3年後、再び訪れたパリでは五月革命に遭遇、若者たちの熱気と社会の胎動に触れた。翌年、自分の事務所を開設した。草の根からの出発。目の前の仕事に追われる日々であったが、そんな私の悪戦苦闘の間にも、パリではすでにマルロー法の下、歴史都市を守る明確な意思が示され1977年には、ポンピドゥー・センターが出現した。続く80年代には、ミッテランのグラン・プロジェが新たな風を吹き込む。国家の意思を背負う都市のダイナミズムを、遠く日本から固唾(かたず)をのんで見守った。1989年、ルーブルの庭にガラスのピラミッドが登場したときには、すぐさま現地を訪ねた。歴史都市の中心で古典と現代が共生する風景。20世紀建築の一つの到達点がそこにあった。「これにかなう建築を、自分もいつか」–挑戦心が湧いた。
2001年、セーヌ河畔スガン島の美術館の国際コンペ当選で、ついにその機会が訪れる。クライアントは実業家フランソワ・ピノー氏。しかし、着工まであと一歩のところで、パリ市当局の都合により計画は中止。プロジェクトは舞台をベネチアへ移し実現することとなった。
だが人生、何が起こるか分からない。ベネチアの美術館完成後、がんが見つかり二度の手術を受けていた。その翌年、闘病中に心を寄せてくれたパリのピノー氏の元を訪ねると、パリでの新たな計画を打診された。16世紀に起源をもつ歴史的建造物を美術館へと再生するのだという。二十年越しのパリへの再挑戦。断ろうべくもなかった。そうして2021年、完成したのが『ブルス・ドゥ・コメルス』だ。初訪問から半世紀余り。今なお、パリは私にとって挑戦の地であり続けている。旅は、まだ終わっていない。
このシリーズは、建築家の方々に旅と建築について寄稿していただいています。
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