【訃報】本間利雄氏 「地域に根ざした建築」追い求めた建築家 | 建設通信新聞Digital

4月26日 金曜日

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【訃報】本間利雄氏 「地域に根ざした建築」追い求めた建築家

 山形の奥深い風土にあって「地域に根ざした建築」を一貫して追い求めてきた、本間利雄設計事務所を主宰する建築家の本間利雄(ほんま・としお)さんが19日、すい臓がんのため山形市内の病院で死去した。87歳だった。通夜・告別式はキリスト教式により近親者のみで執り行う。後日、「偲ぶ会」を開く。喪主は代表取締役副所長の本間弘(ひろし)氏。

「風と建築」をテーマに講演する 本間さん(2013年10月)

 1931年山形県小国町生まれ。62年本間利雄設計事務所を設立、山形市を拠点に、自然生態と社会生態の両面から人間と環境をとらえた質の高い建築空間をつくり続けた。主な作品に、山形市総合スポーツセンター(90年BCS賞)、山寺風雅の国、東北芸術工科大学、川西町フレンドリープラザ(95年BCS賞)などがある。
 飯豊山の山懐に抱かれた故郷の厳しくも豊かな自然と、実務を通じて師事した吉村順三、松田軍平、坂本俊男、加倉井昭夫らとの出会い。それが自らの建築家人生の原点であるとよく口にしていた。
 なかでも70年代半ばにイアン・L・マクハーグ、そして伊藤ていじの知己を得たことは「地域に生きる建築家」としての像をより明確なものとした。75年には地域環境計画研究室を併設。エコロジカル・プランニングの手法に社会的文化的要素の検討を独自に組み込んだ調査・計画活動の成果は設計活動にも反映され、風土を深く読み取りながら地域のニーズや課題に応えるデザインへと発展させていった。
 “本間建築”の特徴でもある屋根の造形も単に形態操作ではなく、長い時間や風雪に耐えてきた伝統的な民家や蔵を再評価し、今日的な視点から解釈し直すことで導かれたものだ。それは山形の美しい山並みを投影するものでもあり、天と地の間に存在する人間の祈りの行為にも似た形をなす。
 いかに時間に耐えられる建築をつくるか。こうした思いは建築のメンテナンスを担う組織として85年のホンマアーキライフ設立につながる。物理的側面にとどまらず、設計を手掛けた膨大な建築一つひとつの使われ方にも常に心を配った。職人も大切にした。自ら職人としての経験を持ち、「右手の指先には設計図を描きまくった鉛筆だこ、左手の指先には職人時代に間違って潰した跡がある」と言って誇らしげに両手を見せてくれた姿は忘れられない。
 「建築家はある意味でソーシャルワーカーでもある」と地域社会に真っ正面から向き合った。92年から4年間、山形経済同友会の代表幹事を務めるなど、財界人としても精力的に活動。良質な景観形成に向けた県民運動を主導した。山形いのちの電話後援会や山形コロニー協会後援会の会長などその活動領域は多岐にわたった。
 財政難を理由とした事業凍結もあって、事業着手から四半世紀を経て2017年3月に本格着工した山形県の山形駅西口拠点施設(仮称)は、本間さんにとって集大成となる建築であり、その完成に向けた思いは誰よりも強かった。ことし4月に事務所を訪ねた際にも「9月には鉄骨が立ち上がり全体の骨格が見えてくる。その時にまたいらっしゃい」と話していただいた。それだけに残念でならない。
 本間建築に共通する居心地の良さは建築の中に、空間に飛び込んでこそ実感できる。それは本間さんの人柄そのものだった。昨年3月に亡くなった最愛のお嬢さん利枝さんとともに、いまその魂はこよなく愛した飯豊の山のもとにあるのだろうか。安らかにお休みください。ありがとうございました。
合掌

建築界の大きな支え失う 建築家・内藤廣 東大名誉教授/内藤廣建築設計事務所

 2カ月前、対談をさせていただいたばかりだったので、訃報に接し驚いています。故郷の小国のこと、山形のこと、東北のこと、ブナ林のこと、戦後のこと、建築家協会のこと、先生からさまざまなお話しをうかがうことができました。先生は、山形から、常に国全体の動きや時代の流れを鋭く見通されていました。建築界は、また一つ大きな支えを失ったことになります。ご冥福をお祈り申し上げます。

「風土」「地域」の本質追求 建築史家・川向正人東京理科大名誉教授

 本間利雄先生は、1980年代に大きなうねりとなって顕在化した「風土・地域に根差す建築」を求める世界的な動きを日本で担った建築家でした。既に74年に米沢でイアン・マクハーグに出会い、その生態学を取り入れた「地域環境計画研究室」を事務所内に創設。「風土」「地域」を大切に思うがゆえに排他的にならず、あくまでも科学的にその本質に迫ろうと努められた。今後、影響の広がりが期待される一典型をなす建築家でした。

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