藤森氏は、処女作である神長官守矢史料館の設計を依頼された経緯を「本来であれば、地元出身者である伊東豊雄さんがやるべきだったが、諏訪大社の歴史を踏まえたデザインが求められると思い、引き受けた」と振り返りながら、設計を手掛ける上で心掛けていることとして「現代建築の影響を感じられるものをつくらない」「歴史的な引用を使わない」という2点を挙げた。
「なぜ、あなたはああいうモノをつくるのかとよく聞かれるが、自分でも分からない。ただ、建築史家として他人の建築を批評してきた以上、同世代の建築家と同じことはできないと考えた。その上で、建築史家だから歴史的なアプローチで設計したと思われることも嫌だった」という。その結果として生まれたのが、“見たことがないのに、なぜか懐かしい”「藤森建築」というわけだ。
他人の建築物は批評するが、自身の設計過程では決して言語化しないとも述べる。「検討過程は発酵のようなもので、自分の中にとどめておく必要がある。言語化は光を当てると言い換えることができ、発酵の敵だから自分のことは考えないようにしている」
こうした藤森氏の生みだす建築に対し、磯崎氏は、能の事例を挙げて分析。「能は舞台装置が一切ないが、唯一の例外として、住居や土蜘蛛(くも)の巣などをシンボル的に表現する『つくりもの』というものがある。実物を模した『つくりもの』を能では非常に大切にする」と説明した。
「藤森さんは意図的ではないにせよ、自然物を使ってナチュラルではないモノを組み立てる。つまりそれは、人工物であり、 『つくりもの』に通ずる部分だ」と続け、「路上観察の過程で引き出してきた美意識が影響しているのでは」と指摘した。
対談は100分近くに及び、ユーモアを交えた掛け合いに、会場からはたびたび笑い声が起こっていた。