【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第9回 象の鼻パーク/テラス | 建設通信新聞Digital

4月24日 水曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第9回 象の鼻パーク/テラス

◆小泉アトリエ主宰 東京都立大学大学院教授 小泉雅生さん/小さいもの並べ大きな風景

左にあるのが象の鼻テラス。黒い舗装部分が当時の波止場の1本

 日本と世界が出会った場所–。横浜開港150周年の節目となる2009年、横浜港発祥の地に「象の鼻パーク/テラス」が誕生した。オープン以来、憩い・交流・表現の場として、さまざまな出会いを生み出し続けている。象の鼻パーク/テラスを設計した小泉アトリエ主宰で東京都立大学大学院教授の小泉雅生さんにこの場所に込めた思いをインタビューしたほか、現地を歩きながら、完成までの秘話や空間に隠された秘密を聞いた。


–市の公募型プロポーザルにより選定されたとうかがいましたが、プロポーザルに参加された理由を教えてください
 「横浜で活動している人間として、参加しない手はないと思いました。悩むまでもなかったです」
–どのような思いを込めて設計されましたか
 「ここは横浜港発祥の地で、いわば横浜の原点のような場所です。そうしたことを伝えられる場所にしようと考えました」
–どのように表現したのでしょうか
 「建築をつくるというのは、外から新しいものを持ち込むということです。既存のまちのあり方や活動、キャラクターを深く読み込まなければ、まちの人たちに受け入れてもらうことはできません」
 「建築には時として、シンボリックな見た目を求められることがあります。この場所もそうでした。しかしここでは、人間の身体感覚に則した、ヒューマンスケールの空間づくりをするべきだと感じました」
 「そこで、タワーのような形態でシンボル性を獲得するのではなく、小さいものを並べて大きな風景をつくるという案が思い浮かびました。その象徴が、水面を大きく円形に囲い込むように配置したスクリーンパネルです。個々のパネルが集まることで、1つの大きな照明のように感じられる。『みなと横浜』の原点を表現しています」

芝生スペース


◆外に広がる開放的な空間創出
  –このほかには
 「既存の要素をできるだけ生かすことを心がけました。例えば芝生のスペースは、海側に向かってなだらかに下っていく斜面形状にしました。実は芝生スペースの後ろ側には昔、山下公園方面に向かう貨物列車が走っていたんです。元ある風景に無理なくなじむように、芝生スペースは当時の軌道に沿う配置としています」
–象の鼻パークと象の鼻テラスのつなぎ方でこだわったことはありますか
 「テラスは休憩所であると同時に、文化芸術の発信拠点という位置づけになっていました。イベントなどが行われることを考慮すると、外から光が入り込まず、音が入ってこない閉ざされた箱のほうがやりやすいという意見もありました」
 「しかしここは、海に向かっての景色が抜群に良い場所です。ここならではの文化芸術活動ができるはずだと考え、周囲の風景を積極的に取り込み、開放的な空間に仕上げました。内と外を隔てるのではなく、外にどんどん広がっていく場所にしました」
 「象の鼻テラスで開催された演劇では、パフォーマーが外に走って消えていく演出もありましたし、テラス内を舞台に見立てて外の空間を観客席にするという使われ方もしています」
–空間づくりで工夫したことはありますか
 「視線の向かい方にこだわりました。芝生スペースや象の鼻テラスは緩やかな弧を描く造りとなっています。そうすることで、自然に象の鼻防波堤に視線が向かいます。また、テラスの裏側の出口から出て階段を上っていくと、横浜三塔のひとつ、横浜税関のクイーンの塔に視線が行きます。周辺環境とこの場所が共存できるように、さりげなく周囲に意識を向ける仕掛けをしました」
 「また、みなとみらいや赤レンガ倉庫など、周囲にはさまざまな名所があるので、ここから眺める外の風景がより魅力的に見えるようにしました。夜景を邪魔しないように、手すりに照明を組み込み、下方を照らすようにしています。ここから見る夜の横浜の景色は格別です」

スクリーンパネルのあかりが夜の横浜を優しく包み込む


◆過去と現代つなぐ遺構が随所に
 かつてこの場所には、1859年の横浜港開港にあたり、直線状の2本の波止場がつくられた。象の鼻パーク内の地面をよく見ると、当時の波止場のうち西側の1本がどこにどのように存在していたか、舗装の色の変化でわかるようになっている。
 その後、東側の波止場が徐々に大きくなり、湾曲した形になっていったことから、明治ごろには「象の鼻」と呼ばれるようになった。1923年の関東大震災被災後は、やや直線的な形に復旧され、物揚場や船だまりとして活用された。
 象の鼻パーク整備に当たって小泉さんは「実はどの時期の形に復元するのが正しいのか議論になりました。結果として、やはり象の鼻という場所の由来となった明治中期の湾曲した形に復元しましょうという話にまとまりました」と明かしてくれた。

 パーク内を歩くと、随所に明治期の港の遺構が使われていることがわかる。なだらかな斜面形状の芝生スペースには、工事中に地中から発見された明治時代の舗石をベンチとして活用した。
 小泉さんは「調べてみると神奈川県真鶴町の小松石であることがわかりました。どうにかして使おうと考え、斜面に並行に並べてベンチにするというアイデアが浮かびました」と話す。
 明治中期ごろに整備された鉄軌道と転車台もほぼ当時のままの姿で発見された。転車台はいまでも回るという。工事終盤に出てきたこともあり「大騒ぎになりました。関係者みんな現地に集合して、どうしようどうしようと右往左往」と小泉さんは懐かしむ。続けて、「結果的に現地で展示するのが一番良いという話になり、来街者が自由に見られるようにガラス蓋をかけることにしました」
 このほかパーク内には、税関施設の1つだった「煉瓦造2階建倉庫」の基礎部分や関東大震災で沈下した当時の防波堤の一部をそのままの形で保存・展示している。

 現地見学中に小泉さんは、公募型プロポーザルで自身が設計者に選ばれた際のエピソードも教えてくれた。
 「プロジェクトが開始するタイミングに、横浜税関の当時の税関長から呼び出しがかかりました。行くと、マッカーサー元帥が当時執務していた部屋などを案内されるんです。一体何を言われるのだろうとビクビクしていると、税関長から『象の鼻地区は税関の歴史の発祥の地で、とても思い入れのある場所だ。それを理解した上で設計してほしい』との声を掛けられました。ものすごいプレッシャーでした」
 その後、遺構の発見など一筋縄ではいかない工事を経て、無事象の鼻パーク/テラスが完成する。
 小泉さんは「税関長が『ずっと(横浜税関の)執務室から工事の様子を見ていた。柔らかい雰囲気の場所ができ上がり、良い場所になった』と言ってくれました」とうれしそうに語る。
 オープンして10年以上が経ち、小泉さんは「みんなに認識される場所になってきたと同時に、大人がゆったりとした時間を楽しめる場所であることが認知されてきたと感じています。象の鼻テラスに関しては、障がいのある方とアーティストをつなぐ活動など、意欲的な取り組みが展開されています。この場所で活動されてきた栗栖良依さんは、東京2020パラリンピックの開会式でステージアドバイザーを務められました。象の鼻テラスの取り組みは大きな成果です」

 過去と現代をつなぎ、人と人をつないできた象の鼻パーク/テラスは、今後も新たな出会いを生み出し続ける。
 象の鼻パーク内のベンチや階段などにはレンガタイルを使っている。歴史が感じられるように、意図的にふぞろいのタイルを使った。小泉さんは「大きさがふぞろいのタイルをつくることは逆に難しいんです。何度も試作をしてつくり上げました。10年以上経ち表面が風化して、当時狙った形になってきています」と話す。
 詩人・谷川俊太郎氏が象の鼻テラスから横浜の海を眺めながらつくった詩作品「〈象の鼻〉での24の質問」が、テラスの大きな窓に記されている。小泉さんは「自分の設計した建物に詩を読んでもらい、胸がいっぱいになりました。『この風景の前で、あなたが大切にしているものを三つ思い出して下さい。』という質問が特に気に入っています」と語る。

◆施設概要
▽建設地=横浜市中区海岸通1
▽敷地面積=3万3684㎡(象の鼻パーク)
▽延べ床面積=604㎡(象の鼻テラス)
▽構造規模=S造平屋建て
▽設計=小泉アトリエ・小泉雅生(象の鼻パーク/テラス)
▽施工=渡辺組(象の鼻テラス)
▽照明デザイン=LIGHTDESIGN INC.・東海林弘靖(象の鼻パーク)



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