【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第12回 東永谷地区センター・地域ケアプラザ | 建設通信新聞Digital

4月27日 土曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築100周年】第12回 東永谷地区センター・地域ケアプラザ

 
 横浜市港南区の東永谷地区センター・地域ケアプラザは、設計者・伊東豊雄氏の真骨頂である「閉じない建築」の先駆けとなる公共建築だ。伊東氏によると「与条件が明快」で窮屈なところもあったが、そこをすり抜けて緩く自由につくる実験的なことを随所で試みている。後のせんだいメディアテークにもつながっていく興味深い建築である。伊東氏と設計当時の担当者の柳澤潤氏(現コンテンポラリーズ代表/関東学院大学)に聞いた。

◆伊東豊雄氏に聞く/与条件から逃れる場所をつくる/「壁」の間をすり抜け閉じない建築

 「どうやって与条件の明快さから逃れる場所をつくり得るかというのが、われわれの大きなテーマでした」。設計者の伊東氏はそう振り返る。面白い公共建築をつくるために立ちはだかる「壁」を克服するには、風穴をあけるのではなく、壁の間をすり抜けるしかないと話す。東永谷地区センター・地域ケアプラザもそうだった。「正直、窮屈なところもありましたが、エントランスから体育室、図書コーナーの部分はわりと緩く自由につくれるんじゃないかと思いました」。現場監理を統括していた東建男氏(現伊東豊雄建築設計事務所取締役)、担当の柳澤氏とすり抜ける道を模索した。実はここで、実験的な試みがいくつか展開され、伊東氏の公共建築への考え方の端緒が垣間見られる。せんだいメディアテークにも連なっていくものだ。
 担当の柳澤氏は東永谷地区センターの設計が始まった1994年当時、30代前半だった。「伊東さん、東さんと一緒にいろいろ考えさせていただきました。サイン一つ、家具一つまでこだわりを持ってつくることができました」と話す。当時は、公共施設の壁はあったとは言え、現在ほど制度やルールががんじがらめではなく、自由度が残っていた。柳澤氏によると、自分自身にとってさまざまなことを学んだバイブルのような建築であり、いろいろな意味で伊東豊雄建築設計事務所にとっても公共建築から学んだことの多い作品だったのではないかと思うと話す。
 東永谷地区センターは2階建てで、デイサービスなどの地域ケアプラザを併設する建物。地区センターの中には体育室をメインボリュームに図書コーナー、音楽室、料理室、工芸室、会議室などが配置されている。
 翌95年から設計が始まった「せんだいメディアテーク」が、公共施設としての自由度が画期的に高かったこともあって、東永谷地区センターの建築がより「窮屈」に感じられたのかもしれないが、先行した同センターの意欲的な考え方はメディアテークに生かされてもいった。
 その一つは、伊東氏の真骨頂でもある「壁の少ない建築」だ。せんだいメディアテークは、これを象徴する建築で、透明なガラスで覆われたチューブと呼ばれる構造体が上下階を視覚的につないでいるのはよく知られている。東永谷地区センターにもこの走りのような考え方が見られ、機能の異なる地域ケアプラザを「壁」をつくらないように巧妙につなげた。

図書コーナーとケアプラザを緩くつなぐコートヤード

 伊東氏はこう話す。
 「(2つの機能について)外と中とではっきり分けるようにと言われたので、地区センターとケアプラザの間にコートヤード(中庭)を設けて、(ガラスのファサードとすることで)お互いに見合えるけれども機能的にははっきり分かれている、ということは一つの特徴だと思います」。隣接する2階の図書コーナーとケアプラザの1階がガラス越しにコートヤードを挟む構造になっており、互いに人の動きが見える。
 東、柳澤両氏もこのコートヤードはバッファ(緩衝帯)としてとても生きており、程よい距離感をつくっていると指摘する。柳澤氏は「ケアプラザと地区センターの人々の間でエネルギーが交換され、お互いの元気の源になるのではないでしょうか」と話す。壁の少ない建築というつながる(閉じない)空間はさらに、両施設を天井のアルミルーバーとグレーの床で統一したこと、体育室と図書コーナーをあえて隣りに配置したことが挙げられる。
 体育室そのものも閉じない建築を先導しており、ファサードはガラスだ。通りを挟んだ横浜市立南高校の生徒の通学路でもあり、同校出身者がこの建築を見て現在海外で活躍する建築家になったという逸話も生まれている。伊東氏は「通りを歩いている人と体育室で運動をしている人がより近いものになればという意識はありました。左右均等ではないのによく許可をしていただいたと思います」と述べる。用途によっては遮光カーテンを下ろして使うこともできる。
 スペースがしっかりと確保された図書コーナーからは、ケアプラザとちょうど反対方向にやはりガラス越しで体育室が見える。体育室と図書施設が視覚的につながる建物はほとんどないのではなかろうか。静と動がガラスを隔ててつながる。伊東氏は「図書コーナーから見ると体育室は吹き抜けの働きをしているとも言えます」と指摘する。
 閉じない空間の考え方だけでもこうしたアイデアが要所に適用され、伊東氏が言う「きちっとできた優等生の公共施設」でも可能性が広がることを教えてくれる。こうした試行錯誤がせんだいメディアテークにつながっていったのである。

図書コーナーから体育室方向を見る


 伊東、東、柳澤3氏ともに、当時デザインした家具がそのまま残っているなど、竣工当時とほぼ変わらない使われ方をしていて、きれいに維持されていることがとてもうれしいと話す。
 公共施設について伊東氏はこう述べる。
 「最近負けたある自治体のコンペティションなんですが、調理室と他の部分との境界を割と緩くつくったんですね。そうしたら役所の方から、これだとにおいが外にもれてしまうのでまずいのじゃないですかと言われたのですが、ぼくは逆ににおいで何をつくっているかが感じられた方が交流ができて、コミニケーションを促進するんじゃないかと思うんです。でも役所の方にはなかなか許していただけなくて。公共施設に立ちはだかる壁の間をすり抜ける回り込み方は、いろいろあるような気がしています。利用者の方は模型を見てもなかなか実感できない部分があって、説明をしても理解が難しいのは当然だと思うんです。いろんな方法で理解をしていただくよう努めていますが、出来上がってみると割とさらっと良いじゃないですか、みたいに言われることも結構あるんですよ」

体育室。奥に見えるのが図書コーナー。天井のルーバーはケアプラザまで連続しており、一体感を生んでいる

◆建築概要
所在地=横浜市港南区
設計期間=1994年5月-95年9月
工期=1996年1月-97年3月
構造・規模=RC一部S造2階建て延べ2802.51㎡
設計=伊東豊雄建築設計事務所
施工=千代田アクタス

                  

◆設計当時の担当者 柳澤潤氏に聞く/自分を戒める原点で宝物のような建築
 コンテンポラリーズ代表で関東学院大学准教授の柳澤氏は、東永谷地区センターを設計した当時、伊東豊雄建築設計事務所の所員として初めてプランの段階から竣工まですべてを担当した。
 「まっさらな場所で、横浜市、地域の方などとどんな場所だったのかというところから始めました。ぼくにとっては宝物、自分を戒める原点ですね」
 久しぶりに建物をゆっくり見て回って「竣工から25年経っていますが使われ方がほとんど変わっていないのがとてもうれしい。外観、床、壁などが本当にきれいで、長く使っていくという気持ちが伝わってきます」と感慨深げに話す。
 ガラスのファサードによって外の通りから中のアクティビティーが見える体育室は、建物の中央に配置されている。トップライトからも適度な光が入り込み、ファサードと反対の廊下側の壁には、当時イタリアから輸入したガラスブロックが設置され、トップライトからの光を体育室に反射するとともに、廊下側にも淡い光を透過させている。スパンが12mほどあって、H鋼で支えるには天井にある程度の深さが必要になったが、天井高が限られていた。そこで、構造家の佐々木睦朗氏が格子梁を提案して薄い構造を可能にした。
 「この梁を覆うため、棒状のアルミのルーバーを設置することにして、体育室だけでなく、図書コーナー、そしてコートヤードを挟んだ機能の違うケアプラザまでの天井すべてにこのルーバーを取り付けました。建物の一体感を出すためです。印象に残っているのは、天井工事用の足場を一気に解体したときに、天井のルーバーを見て施工者の皆さんが『おーっ』と一斉に声を上げて、『すごい』とその広がりに驚いた瞬間があったことです。足場がある時はこの広がりがわからなかったのです。不安もありましたが、良かった、大丈夫だったと思ったことをよく覚えています」
 コートヤードを挟んだ図書コーナーとケアプラザは、設計で意図したようにお互いの人の動きを自然に意識する関係が今でも続いていると、白井一夫館長は話す。柳澤氏は「直接つながると難しい面もありますが、コートヤードというバッファを設けることで緩い連続性が確保できています」と説明する。
 ここでの経験は、その後の柳澤氏の設計に大きな影響を与えている。「10年ほど前に竣工した長野県塩尻市の図書館は、あるOBの方から『東永谷のようだね』と言われました」。現在現場監理が進んでいる横浜市の小学校は図書館と調理室が中心になっているような建築だ。生徒が通り抜ける場所としてこの2つを配置しており、まさに閉じない建築空間と言える。
 さまざまなことを考えた駆け出しのころの建築。「もう一つ学んだのは、空間をできるだけ大きくつくっておくということ。空間にキャパシティーがないと何十年か経った後で改修する際に、難しい課題に迫られるのではないかと思います」。当時、横浜市が建築家を信頼して任せてくれたことに感謝しているとも述べる。



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