【記念シリーズ・横浜市公共建築】第34回 西谷浄水場/浄水場にある小さな文化財 | 建設通信新聞Digital

5月5日 日曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築】第34回 西谷浄水場/浄水場にある小さな文化財

日本の近代水道発祥の地・横浜。初めて給水を開始した明治20(1887)年、水栓からほとばしる水に市民は驚嘆した。その28年後の大正4(1915)年3月、横浜市のほぼ中央に位置する保土ケ谷区の高台に、西谷浄水場は誕生した。ここには、横浜に数ある有名近代建築に引けをとらない、赤れんがの小さな建屋6棟が凜(りん)としてたたずんでいる。何のためにつくられ、今後どのように保存されていくのか、現地を訪ねた。

97年に四角形、八角形の建屋とともに国の有形文化財に登録された

◆建設当時から美観を意識
浄水処理施設の中央部に、四角形の四つの建屋、八角形の二つの建屋が整然と立ち並ぶ。四角形の建屋はもともと、ろ過池の整水室として整備された。当初室内にはバルブがあり、ろ過する水の量を調整する役割を果たしていた。

当時は、現在主流の薬品を利用して水をきれいにする急速ろ過ではなく、微生物の力を使う緩速ろ過を採用していた。この方式は急速ろ過池に比べて広大な敷地が必要で、当初はろ過池が八つあった。

同数の整水室も備えていたが、1973年の改修工事により緩速ろ過池と整水室は機能を停止した。工事に伴い整水室4棟は解体したものの、東側の4棟は現地で保存し、97年には八角形2棟の建屋とともに国の有形文化財に登録された。

銅板葺き平屋建ての整水室は、赤れんがを基調に花崗岩のラインが入った建築デザインで、1914年12月に開業した辰野金吾設計の東京駅丸の内駅舎や1917年7月開館の横浜市開港記念会館をほうふつとさせる。

現在の銅板屋根は緑青色だが、当初は鮮やかな赤褐色だった。室内はしっくい塗りで、中央の照明器具取付口は陶磁器となっている。

一方、八角形の建屋は1号配水池(現在は休止)の脇に1棟ずつ設けた。ここにもバルブがあり、配水池に出入りする水の量を調節していた。形状が八角形となっていること以外は、外観、内観ともに整水室と同様の造りとなっている。

四角形、八角形の建屋ともに形状以外は外観・内観同様のつくりとなっている


吉岡浄水場長

 吉岡直樹水道局浄水部西谷浄水場長は、配水池にバルブを設けている理由を「池の水位と流量を制御することと、池の清掃やメンテナンス時など水を止める必要がある時に使っていたのではないか。現在も配水池には必ずバルブが付いており、水をコントロールできるようにしている」と解説する。

どうして浄水施設の建築が、ここまで凝ったつくりになっているのか。『横浜市水道第二拡張誌』(1919年)には「場内ノ美観ヲ添ウル為メ其上部ニ煉瓦及ヒ花崗岩ヲ以テ上屋ヲ築造シタ」と特長を表す文章が残っている。これを見ると、建設当時から場内の美観を意識して浄水場を整備していたことが分かる。いずれも横浜市水道臨時事業部が設計した。

これから本格化する西谷浄水場の再整備により、現存する四角形、八角形の6棟は敷地内の別位置に曳き家方式で移設される。「関東大震災前の希少なれんが造」、かつての浄水場の排水システムを示す「配置」、浄水場らしい伸びやかな「景観」の三つの価値があるため、移設時には極力既存の配置や向きに配慮した形で残す。滑車などの使用に伴う振動で損傷しないように、基礎補強した上で、細心の注意を払いながら移設する。

1号配水池の通路の出入り口となっている坑門も特長的だ。外観はユーゲント・シュティール様式というドイツ風の様式を模しており、建設当時は装飾が施されていたことが見て取れる。

配水池の内部は二つに分かれており、その間には通路がある。通路への出入り口が坑門だ。現在この配水池は耐震性不足などのため使われておらず、中に入ることはできない。再整備により解体し、跡地はろ過池となる。配水池の解体に伴い、この坑門も撤去するが、現在、保存の方向性を検討しているという。


現在の西谷浄水場(上)。1887年の水道創設時に吉田橋から放水した際には多くの人が見物した

坑門

◆2施設を再整備、相模湖からの導水管新設
西谷浄水場では、「施設の耐震化」「粒状活性炭処理の導入」「処理能力増強」の3点を目的に、浄水処理施設と排水処理施設を再整備する。併せて、水源である相模湖から西谷浄水場までの導水管のうち、旭区川井~西谷浄水場の導水能力不足と耐震強度不足に対応するため、新たな導水管を整備する。

浄水施設には粒状活性炭吸着池を新設する。水源の相模湖は富栄養化が進み、特に夏は藻の発生によりカビ臭が発生することがある。現在は鶴ケ峰付近の導水路に粉末状の炭を注入してカビ臭を除去しているが、注入日数が年間200日に上ることもあり、コストや手間がかかる。活性炭が敷き詰められた池を新設することで、コストを抑えられるだけでなく、急激なカビ臭の上昇に対処できるようになり安定給水につながる。

西谷浄水場は1980年竣工の第8回拡張事業で、日量35万m3の処理能力を持つ浄水場に改造された。しかし、その後、水質基準の厳格化などで現在は実質日量26万5000m3しか処理できない施設となっている。このため再整備では、相模湖系統の水利権の全量となる39万4000m3まで処理能力を増強する。

西谷浄水場は相模湖からポンプを使わずに自然流下で取水できる。処理能力の増強で自然流下系浄水場給水エリアが39%から51%に拡大し、年間約5000tのCO2排出削減につながるという。これは、一般家庭約1700世帯分に相当し、脱炭素に大きく貢献する。

木村室長

 事業者選定に際しては、浄水処理施設にDB(設計施工一括)方式、排水処理施設にDBO(設計・建設・運営)、導水路にDB方式を導入した。これにより、浄水処理施設は当初計画より約9年の工期短縮が実現し、2032年に整備が完了する見通し。排水処理施設は約2年、導水路は約6年短縮し、ともに26年度の完了を見込む。

木村大介水道局西谷浄水場再整備推進室長は「民間事業者から施設の合築(ろ過池とポンプ井)や同時施工などさまざまな提案が寄せられ、大幅な工程短縮とコスト縮減につながった。DBやDBOの効果を実感した」と話す。

また、「WTO対象のため入札参加を市内企業に限定できなかったものの、入札の総合評価項目に『市内経済への貢献』を設けたことで、結果的に契約金額全体の約4割が市内企業に行き渡った」と手応えを感じている。

今後本格化する再整備に向け、「完成してからさらに100年以上使い続けられる施設となるように、事業者と協力してより良い施設をつくっていきたい」と力を込める。

再整備事業者は次のとおり。
 ▽「西谷浄水場再整備事業(浄水処理施設)に係る整備工事」=大成建設・大豊建設・土志田建設・水ingエンジニアリング・シンフォニアテクノロジー・NJSJV。
 ▽「西谷浄水場再整備事業(排水処理施設)」=月島機械グループ(工事=月島機械、日立製作所、馬淵建設、大日本土木、昱。設計=日水コン。運転・維持管理=月島テクノメンテサービス、横浜緑地、武松商事)。
 ▽「相模湖系導水路(川井接合井から西谷浄水場)改良事業に係る導水施設整備工事」=清水建設・鴻池組・中鉢建設JV。

きっかけは英国人技師パーマーの来日

 
日本初の近代水道「横浜水道」を完成させた英国人技師H・S・パーマー。日本の近代水道の歴史は、彼が偶然日本に立ち寄ったところから、大きく動き出した。

長崎、函館とともに開港の先陣を切った横浜では、年々急増する人口の収容対策に追われていた。外国人居留地の確保は開港以来の課題で、新しい土地を提供するたびに水道と下水道が問題となる。

明治時代初期には毎年のようにコレラや腸チフス、赤痢などの疫病が流行し、多数の死者が発生した。衛生環境の改善のためには木樋水道(木製水道管の水道)では限界があり、近代水道(ろ過した水を鉄管を使って有圧により給水する水道)の建設が不可欠な状況となっていた。

居留地各国領事からも、神奈川県はたびたび新式水道建設を要望される。また明治15(1882)年には、横浜居留外国人の意向を受けた英国公使パークスが条約改正交渉などを行う「条約改正予議会」に水道改良に関する意見書を提出していた。

新式水道建設への糸口となったのが、82年のパーマーの来日だ。彼が来日した12月、パークスは沖守固(もりかた)神奈川県令(県の長官)に水道技術者の適任者としてパーマーを紹介する。パーマーは香港と広東で水道を設計した実績があり、この紹介は日本にとって千載一遇のチャンスだった。

そして83年2月からの3カ月間、パーマーは内務省神奈川県付顧問土木師となる。彼は多摩川取水、相模川取水などを調査し、わずか3カ月で概括的な計画を記した横浜水道工事報告書をまとめる。

その後、内務省はパーマーの設計を再度吟味し、技術的裏付けを得た上で、84年7月に三条実美太政大臣に政府の方針決定を求める伺書を提出。工事計画が妥当であると認められる。そして11月、内務省から工事の許可指令が出され、横浜近代水道の建設が国の事業として具体化する。

パーマーは85年2月の英国陸軍省退役後すぐに再来日し、日本初の近代水道工事を指揮することになる。

85年4月の着工に際してパーマーは、英国から監督補佐や職工長、鉛工などの技術員を連れ、日本人の技術指導に努めた。不良材料は漏水の原因になるため、良品の探索やその試験にも異常なほどの精力を費やしたという。鉄管や耐火れんがなどの特殊品は海外から輸入したが、粘土やろ過砂などは国内各所を広く訪ね、適格品の探求に努力した。

87年に入ると年内完成の見通しがつく。このタイミングで、経営は神奈川県が担当することになった。そして9月、全工事が完了し、同月21日、三井用水取入所の運転を開始した。順次導水路線に通水し、10月4日には野毛山に相模川の水が到達する。

17日から市内への給水が開始され、市民は水栓からほとばしる水に驚嘆した。

通水の前年、86年には横浜を発生地としてコレラが猛威を振るったが、通水開始以降、疫病の発生件数は激減した。全国の水道建設促進にも拍車がかかる。近代水道が完成すると、全市に水圧を利用した消火栓が配置され、消防組織の在り方をも変えた。これが近代消防への第一歩となる。

10月17日は日本の近代水道創設の記念日で、ことしで135年を迎えている。
 

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