【記念シリーズ・横浜市公共建築】第55回 外交官の家/危機乗り越え思い受け継ぐ | 建設通信新聞Digital

5月17日 金曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築】第55回 外交官の家/危機乗り越え思い受け継ぐ


◆篠山紀信氏もお気に入りの場所
明治から大正にかけて世界中を飛び回った外交官・内田定槌の邸宅が、東京都渋谷区南平台から横浜市の山手地区に移築復原されてからことし25周年を迎えた。新築時から数えて110年以上経ったいまもなお、『外交官の家』としてこの家が残り続けている背景には、定槌の孫・宮入久子さんの「この家を残したい」という強い思いと、その思いに共鳴した人たちの奮闘があった。久子さんの長男・宮入康夫さんと三男・昭彦さんに、内田邸がたどってきた歴史と移築復原の過程を聞いた。

康夫さん(右)と昭彦さん

◆空襲の難を逃れ避難所に
内田定槌邸は洋館と和館併設の住宅で、明治政府の外交官だった定槌の自邸として、米国人建築家・J・M・ガーディナーの設計により1910(明治43)年に建設された。太平洋戦争末期の45年、本土空襲で焼夷弾のおもりが洋館の屋根を貫き、2階浴室が破壊されたが焼夷剤(出火させる薬剤)は周囲に飛び散り、内田邸は難を逃れた。一方、周囲の住宅は焼夷剤による火事で辺り一面焼け野原になったという。
この時、定槌の長男一家と周囲の人たちは何とか内田邸を守ろうと、火が燃え移らないように内田邸敷地内の井戸から水を汲み、消火活動に当たった。「この影響で井戸の水が枯れてしまったと言われている」(康夫さん)という逸話が残るほど、当時からこの家は人々にとって“守りたい”と思わせる特別な存在だった。多くの人の手により、燃えずに残った内田邸は、避難所として火災で家を失った周辺の人を受け入れた。
59年には進駐軍が接収時に行った工事が原因で漏電し、ボヤ騒ぎも発生。現在でも、3階には焼け焦げた跡が残っている。
たび重なる危機に遭遇しながらもその姿は残り続け、内田から久子さんら子孫へと受け継がれていく。
59年から72年までは洋館すべてをアートディレクター・堀内誠一らが設立した広告制作会社のアド・センターに貸し出した。敷地内には当時、洋館を含め四つの建物があり、宮入家は敷地内の別の家に住んでいた。
少年だった康夫さんと昭彦さんら三兄弟は、アド・センター制作の広告モデルとして、洋館1階の撮影室に赴き、多数の企業広告や雑誌のモデルを務めた。康夫さんは「当時アド・センターに所属していたカメラマンの立木義浩さんが1回の撮影で何百枚も撮影していた。撮影用のライトが熱くて大変だった」と撮影時を振り返り、「撮影を終えると近くのフルーツパーラーでフルーツポンチやプリンアラモードを食べさせてもらった。いま思うとそれがギャラだったのだろう」と懐かしむ。
康夫さん、昭彦さんがそれぞれ、大学生、高校生だった73年、アド・センター退去後には1階を事務所などとして外部に貸しつつ、2階から上を宮入家の住宅として利用し始めた。1階を経由せず直接2階に上がれるように、建物外には鉄製の階段も設置した。康夫さんは結婚してからも子ども2人を含む家族4人で、塔屋部(3階)を改装して95年まで住み続けた。

1階室内(上)と塔屋の八角形の部屋

康夫さんは「洋館に引っ越してくるまではセントラルヒーティングの2×4(ツーバイフォー)住宅に住んでいたため、生活レベルとしては不便になった。窓から水が入って床がビチョビチョになることもあったし、床も傾いていた」と話す。「住んでいるときは特別なものという意識はなかった。ディズニーランドの『ホーンテッドマンション』のようで、もう少しきれいなところに住みたいと思っていた」とも。
一方で昭彦さんは、この家に遊びに来る友人は「洋館を特別なもののように感じていたようだ」と振り返る。写真家・篠山紀信氏もこの住宅に魅力を感じていた一人だ。1階のサンルームを気に入り、撮影スタジオとしてたびたび使っていた。吉永小百合さんや天地真理さんなどが撮影に訪れた際は、「授業をサボって見学に来ていた」と康夫さん。
この時代にも建物内ではアクシデントが発生していた。昭彦さんが高校生のとき、2階の自室で漫画を読んでいると、勉強机に向かって漆喰の天井が落ちてきた。「爆撃を食らったようなものすごい音がして親が飛んできたが、奇跡的に直撃を免れた」と昭彦さんは回想する。白いほこりで目の前が真っ白な状態だったといい、衝撃の大きさを物語る。
築造からたび重なる危機に遭いながらも、幸いなことに誰一人けが人は出なかった。「大きい台風が来る際は、それに備えて工務店に徹夜で常駐してもらった」(昭彦さん)など、家を守ることが生活の一部となり、暮らし続けることで家を守り続けた。
康夫さんは「内田定槌、そして定槌の妻・陽子に守られてきたのだと思う。いま外交官の家として残せていることは本当に奇跡的なこと」と感慨を込める。

◆保存・復原へ市に移築

組立工事の上棟式に出席した久子さん

「この家を残し続けたい」。内田邸を守り続けることは、久子さんの悲願だった。久子さんを揺り動かしたのは、祖母陽子との絆にあるという。
康夫さんは「母は祖母(陽子)に大変かわいがってもらっていたため、祖母のためにもこの家を守りたいと感じていたのでは」と話す。久子さんは賃貸や当初洋館に併設されていた和館を取り壊して駐車場として活用するなどさまざまな工夫をし、建物の維持に努めていた。しかし、そうした努力も限界に達する。
建物保存の道を探るため、関係各所に働き掛けたが、なかなか思うようには進まなかった。そんな時、雑誌の企画でまち歩きをしていた当時法政大教授で建築史家の陣内秀信氏が偶然内田邸を見つけたところから、保存への歯車が動き出す。

この住宅に興味を示して見入っていた陣内氏に久子さんが声を掛ける。「母は陣内さんに『残したいのです』という話をしたそうです。そうすると陣内さんが『それでは私が一肌脱ぎましょう』と言ってくれた」と康夫さんは語る。

渋谷時代の昭彦さん自室

そして1988年9月、陣内氏の仲介で建物本体を寄付する要望書を横浜市に提出した。横浜市では当時、外国人居留地として国際性豊かな街並みを形成していた山手地区を、近代洋館を活用し、歴史と文化のまちづくりの拠点として整備する構想を温めていた。

構想の実現に向けて市が実施した調査の結果、山手地区に残る洋館は関東大震災により壊滅し、現存するもののほとんどは大正から昭和初期にかけて建設されていたことが判明。市は内田邸の移築が明治時代の洋館の姿を紹介し、その歴史を学習するためにも必要と判断し、89年3月に久子さんの要望どおり、建物を受け入れることに決めた。
横浜市に対して康夫さんは「渋谷にある家を移築するための予算を議会で通すというのは非常に大変なこと」と謝意を口にする。外交官の家の五十嵐貴子館長は「明治期の建物である内田邸(外交官の家)が移築されたことで、山手の西洋館群がより充実したものになった」とその意義を強調。「南平台、山手ともに高台にあるという共通点があり、うまくマッチした」とも。
移築復原に当たっては、建物に改造が加えられていたため、創建時が本来の姿と決め、外交官の当時の生活空間を再現することにした。工事は大きく前半の久子さんによる解体工事と後半の横浜市による組み立て工事に分かれる。

広告モデルを務めた康夫さん

解体は94年に実施。昭彦さんは「部材の一つひとつに番号を振り、ひたすら束ねていく作業だった。とてつもなく大変な作業だった」と回顧する。続けて、95年から97年にかけて実施した復原工事は「束ねていたパーツを一つひとつ同じ場所にはめていった。全部元と同じように、順番どおりに戻していった」
復原では、漏電火災で亜鉛鉄板葺に替えられた洋館部の屋根廻りを従来の天然スレート葺に戻したほか、一部残っていた和館の旧仕様による再生なども行った。
建物を当時の姿のまま残せた背景には「設計者のガーディナーの図面が残っていたことも大きい。敷地内から子孫が出ていくことがなかったからこそ残っていたのではないか」と康夫さんは話す。久子さんの強い思いから、建物本体だけではなく家具も当時の図面や写真から再現していった。

渋谷時代の内田邸

復原作業を振り返り、昭彦さんは「携わってくださったすべての皆さんのものすごい労力と時間があったからこそ実現できた」と感謝する。内田夫妻、宮入久子さんの思い、陣内氏、横浜市との出会い、そして、移築復原に携わった全ての人の何か一つでも欠けていたら、「この家はなくなっていたはず。たくさんの奇跡が重なってこうして残った。いまこの場所にたくさんの人が見に来てくれるのはとてもうれしい」と康夫さんは頬を緩める。

 

 

 

 

 

95年当時の組み立て

新築時(1910年3月着工、同年10月完成)
▽設計=J・M・ガーディナー、施工=横田組
移築復原(解体94年5月着手、同年9月完了。復原95年7月着手、97年3月完了)
▽部材解体・運搬・市所有倉庫への格納=中村古建築
▽解体・組み立て工事に係る設計・施工監理=文化財建造物保存技術協会
▽建物の構造補強、設備計画、管理・展示・休憩スペースを目的とした新設棟設計協力=マヌ都市建築研究所
▽組み立て施工=竹中工務店
▽空調換気・衛生設備工事=神中工業
▽電気設備工事=明和電設工業
▽規模(新築時)=木造2階建て塔屋1層延べ416㎡
▽所在地=中区山手町16

横浜山手西洋館
外国人居留地として横浜開港の歴史と深く関わり、横浜の移り変わりを見守ってきた山手エリアには、外交官の家やブラフ18番館、ベーリック・ホール、エリスマン邸、山手234番館、横浜市イギリス館、山手111番館の7つの西洋館が建ち並び、明治から昭和初期の当時の暮らしを伝えている。

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