【記念シリーズ・横浜市公共建築】第81回 横浜能楽堂/市民の思い受け継ぎ再生 | 建設通信新聞Digital

5月5日 日曜日

横浜市公共建築100年

【記念シリーズ・横浜市公共建築】第81回 横浜能楽堂/市民の思い受け継ぎ再生

玉石の上に載っている能舞台

 横浜能楽堂には関東最古の能舞台がある。この能舞台は、1875年、能をこよなく愛した旧加賀藩主・前田斉泰により東京・根岸に建てられた。1965年に解体され、止まってしまった歴史は、能楽関係者や市民の思いにより、再び横浜の地で動き出すことになる。“再生”の中心的役割を果たしたのが、国立能楽堂などの設計を手掛けた建築家・大江宏の思いを受け継いだ、大江宏建築事務所の面々だった。設計に携わった大江建築アトリエの大江新代表と当時大江事務所に在籍していた奥冨利幸近畿大建築学部教授に能舞台復原の話を聞くとともに、大規模改修の設計を手掛ける松田平田設計の白井達雄常務執行役員にコンセプトを語ってもらった。

左から奥冨氏、大江新氏、白井氏

大江宏の哲学引き出す
            文化財を“生かす”復原

 能舞台は斉泰の死後、1919年に東京・染井(現東京都豊島区)の旧高松藩主・松平頼寿邸に移築され、「染井能舞台」として親しまれた。数々の名舞台が演じられてきたものの、老朽化などのため解体し、部材が保存されていた。
 それを知った横浜在住の能楽師やその周りの人々を中心に、能楽堂建設に向けた運動が動き出し、次第に市民も声を上げ始める。5万筆を超える署名も集まった。能舞台復活への期待は大きかった。
 能楽師が能を演じる能舞台の復原と、それを包む能楽堂の建物の新築設計は、大江宏が没した翌年にスタート。当時事務所を主宰した大江新氏を中心に、奥冨氏らが実務面を担当した。
 奥冨氏は「大江事務所としても、宏先生の遺志を継ぎ、どのように横浜市民の皆さんに愛される能楽堂ができるか考えました」と話す。その過程では「宏だったらこう考えるだろうと想像しながらつくっていきました。誰がリーダーシップをとるでもなく、亡くなった宏に導かれるように」と新氏。

 どのように大江宏の哲学を受け継いだのか。
 奥冨氏は「宏先生はあまり細かい指示をされませんでした。われわれが図面を描いていると後ろに来て、一言何か言って去っていくタイプ。その一言の意味を考え、どのように解釈すればいいのか真剣に考えました」と振り返る。
 「そしてまた図面にして宏先生に見ていただき、『こういうことだったのかな』『やっぱりこうじゃなかったのかな』と自問自答していました。その中で、いかにわれわれが宏先生の建築の哲学を引き出してくるか。それが変わらないテーマでした。実は、横浜能楽堂もそうした意識で設計していました」と明かす。
 新氏も「駄目な部分があっても、あまり丁寧に理由を説明してくれませんでした。『おまえたちよく考えろ』というような感じでしたね」と記憶をたどる。
 そうした繰り返しで、大江宏の哲学が自然と体に染みついていった。横浜能楽堂にも大江宏の哲学が詰まっている。

 能楽堂の建設に際しては、いくつかの敷地が候補に挙がった。最終的に、神奈川県立音楽堂や県立図書館など前川國男作品が周囲に立ち並ぶ、掃部山公園の南端部に決まった。狭小な敷地だったが、多くの人々に歴史ある能舞台に触れてもらうため、500席を設けるという目標も課せられる。
 そこで2階席を設けることにした。国立能楽堂のように貴賓席はないが、2階席を設けたことで、皇族の方々のご観劇にもつながった。
 横浜能楽堂は、新しくつくる能楽堂に、歴史ある能舞台を入れるという構成だ。奥冨氏は「宏先生のお父さま、大江新太郎先生は宝生会館という能楽堂をつくられました。実はその中に入った能舞台も、本郷(現東京大学本郷キャンパス)から移した前田家の能舞台だったのです。大江事務所で前田家の舞台を迎えて設計することにご縁を感じました」と語る。

 復原に際して、初めはどこにアイデンティティーがあるかわからず、苦労したという。地覆(建物の土台)から下の部材も残っていなかった。その流れが変わるのが、建設当時の根岸邸が描かれた絵図の発見だ。能舞台も描かれていた。
 奥冨氏は「絵図を見ると、池のほとりにこの能舞台が建っていたことが分かりました。玉石の上に載っている能舞台というのは非常に珍しいのです。再現しているのでぜひ見ていただきたいです」と紹介する。
 幸運なことに、能舞台の横に描かれていた「煎茶席三華亭」も、金沢市の「成巽閣」に残っていた。「横浜市の担当の方と見に行って、設計のイメージが一気に広がりました」と奥冨氏。

 屋根の復原にも苦労した。初めは形が分からなかったが、保管されていた部材を仮組することで、ようやく寄棟の能舞台ということが判明。奥冨氏は「寄棟の能舞台は喜多能楽堂や本間家能舞台くらいで珍しいのです。静かな印象を与えます。斉泰公の隠居時に建てられたものであるのと同時に、文人趣味の思想が反映されていたのかもしれません」と解説する。
 実は復原された屋根の下の天井は、建築当時とは異なっている。
 奥冨氏は「もともと格天井(水平な天井)だったのですが、これでは道成寺(天井に取り付けた滑車に綱を通し、鐘の上げ下ろしを行う曲目)は、通常どおりに演出できません。当時この能舞台では、鐘が入る大きさの穴が天井に空けてあり、そこから吊るしていました。そこで能楽師の方の意見を聞くと、通常どおり道成寺を演出したいということで、化粧軒裏(屋根の下の垂木をそのままの形で美しく仕上げる天井)の形でつくることにしました」と語る。

 「現代の能楽師の方々に使っていただいてこそ、建物は“生きる”。“文化財を生かす”という意味で、天井は当時と変わっています」と新氏。
 能を観劇する「見所」(観客席)のつくり方は、大江宏の哲学が受け継がれた。奥冨氏は「横浜能楽堂で一番特徴的なのが光天井。いまは西洋の劇場のように、スポット的に光を当てる能楽堂が増えています。しかしこの場所は、日常的な空間をつくることを目標にしていました。そうした空間づくりに光天井は非常に効果的なのです」と強調する。
 拡散透過材を通して間接的に光を透過させる光天井は、自然光のように優しい印象を与える。能はもともと屋外で演じられていたからこそ、非日常ではなく、日常的な空間にこだわった。新氏は「国立能楽堂の設計時、宏は“屋外空間”を非常に意識していました」と話す。
 さらに奥冨氏は「実は新太郎先生の宝生会館能楽堂も、光天井を入れています。宏先生の考え方は、新太郎先生から受け継がれたものなのかもしれませんね」と想像する。

 横浜能楽堂には、光天井以外にも屋外で観ているような気分になれる工夫がある。新氏は「見所の横や後ろの壁に沿ってひさしがあります。能は舞台の手前が屋外空間で、少し離れたところに屋根のかかった見所があって、そこから眺めることもできたのです。横浜能楽堂ではそのような気分で楽しめます」と紹介する。
 約150年間という歴史をたどっていまなお現代に残り続ける能舞台。歴史的建築物を残す意義とは何なのか。
 新氏は「昔の人たちが築いてきた知恵や技を大事にして、それと向き合おうという姿勢があると、建築に魅力が出てくるのです。それが命だと思います。昔の人たちの痕跡を上手に盛り込んだ建築には面白みや深みがあります」と力を込める。
 白井氏は「建物には、その背景にある歴史、人が使ってきた手の跡のようなものがあります。その跡は壊してしまったらもう二度と戻らない。古い時代のものだから残すべきだというレベルの話ではありません。ずっと残ってきた建物には、過去を生きてきた人々のさまざまな生活の息づかいを感じます。そこに歴史建造物を残す意味があるように思うのです」と語る。

 重ねて、新氏は「失敗をして、いろいろ考えた末に辿り着いた結果が、街のあちこちに建築や構造物として積み重なっているわけです。それを大事にするのはとても重要なことだと思います」と述べる。
 奥冨氏は「この能舞台もそうですが、工匠の人の痕跡が残っています。削り方は全部異なっており、それを見るとどの時代にこの材料を扱ったのかがわかるのです。当時の人の思いや精神、そうしたものが実体的に残っていくのが建物、文化財です。文献と異なり、建物の場合はリアルに材料として残ってくる。つくり方を見ると、当時の社会背景や、どのような考えでつくられたのかが読み取れるのです。生きた証人のように」と話す。


◆見えない部分をより良く変更
 大規模改修では、見所の特定天井改修工事に合わせて、設備工事などを進める。
 白井氏は改修設計を手掛けるに当たり、「中の見えない部分はより良い施設となるように変えますが、見えるところはできるだけ変えない。これを自分たちのルールとしています」と断言する。
 とはいえ、時代の変化に合わせて変えていくべきところもある。「似た形で変えることは好ましくない。変える際には、変えた根拠が分かるようなデザインにする必要があります」と新氏が言うように、“変える”ことには覚悟がいる。

 今回の改修では座席やカーペット、一部壁紙も取り換える。白井氏は「デザインを変えたら元の設計者の意思を変えてしまいます。それでも変える必要性が生じたのなら、元の設計者に『新たなデザインが適切であるか見てください』とお願いします。私たちが勝手に判断しない。それはこの改修設計を任された者が守らなくてはならないことだと考えています」と話す。
 特定天井の改修は、築約150年の能舞台を傷つけないように進める難工事だ。今回の設計では、能舞台を一度解体、保存して改修するのではなく、天井の裏にある骨組みから足場を吊ることで、能舞台を解体せずに済む工法を採用する。

 市は当初、解体して改修することを想定していたが、「文化財保護審議会委員の方々の意見によれば、ばらして再び組み立てる過程で、木材の接合部を傷めてしまう恐れがあるそうです。そこで、2020東京オリンピック時、日産スタジアムの屋根の照明器具を交換した際に、下から足場を建てず、屋根のトラス梁から足場を吊って交換した時の発想と技術を応用するという考えが浮かびました」と白井氏は解説する。

 照明はLED化し、調光できるようにする。色味も調整できる。観客がパンフレットを見るなど、時代の要請に応えたものだ。新氏は「いくら伝統を守ると言っても、かつては印刷物を見ながら能を鑑賞する人はいなかったと思います。舞台だけがしっかり見えていれば十分だった。いまは皆さん台詞(せりふ)やパンフレットを見る。そうなると暗いわけにいきません。調光が重要となります」と変えることの必然性に理解を示す。

◆建物概要
▽新築時設計=大江宏建築事務所
▽施工(建築)=竹中工務店・住友建設(現三井住友建設)・紅梅組JV
▽大規模改修設計=松田平田設計
▽規模=SRC造地下2階地上2階建て延べ5695㎡
▽竣工=1996年3月
▽所在地=西区紅葉ケ丘27-2の掃部山公園内
 *96年5月に横浜市指定有形文化財に指定された。

               



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