中越地震の教訓生かす 共助とコミュニティーの維持が前提 “生きる”には寄り添い合う交流が重要
地震発生日の2004年10月23日、震源地となった新潟県川口町(現長岡市)の周辺は厳冬期を間近に控え、被災者は当面の生活に不安を募らせていた。
仮設住宅の整備に向けて、関係行政機関からは早期完成を優先する意見が上がったが、仮設・復興住宅内の災害孤独死が社会問題化した阪神・淡路大震災(95年発生)で現地支援に携わった経験から「中越地震では孤独死を起こさない」ことを根幹に据えた。
被災者の声を丁寧にくみ取る過程で、住み慣れた居住地への愛着とコミュニティーの深さが見えてくる。これらが精神的な支えになると考え、「建設地はできる限り住み慣れた場所の近くにした」ほか、「入居者には集落・町内会単位で部屋を割り当てて、独り暮らしの高齢者は周囲の家族で見守るような体制を心掛けた」という。
また、「暖かい場所で少しでも心穏やかに正月を迎えてほしい」との思いから、関係者の協力の下、厳しい工程ながらも約3500戸(13市町村・約1万人分)の生活再建の基盤を構築し、年内入居を実現。迅速性にもしっかりと対応した。
結果として、仮設住宅で最も長く生活した故・長島忠美衆院議員(震災当時は山古志村長)を含め、誰一人孤独死に陥らなかった。また、共助とコミュニティーが維持されたことで「(その後の)地域再生にも少なからず寄与したのでは」とみる。合わせて反省点を口にする。災害救助法は「応急仮設住宅の供与(供給)」のみを補助対象としていることから、「床屋や雑貨店といった地域のなりわいを継承できなかった」と振り返る。
この教訓を生かし「仮設住宅にとどまらず、店舗などを含めた仮設市街地が形成できるようになれば、復旧・復興段階のまちづくりがスムーズに進むだろう」との認識を示す。
一方で、次代に継承された好事例がある。通所介護や配食などに対応した高齢者向けのサポートセンターも補助対象外だった。ただ、「寄付金などを活用して設置し、地元の社会福祉法人が運営する」とした民間主導の取り組みが生まれ、東日本大震災では同センターの設置費用が補助対象に組み込まれた。
設立に尽力した「山の暮らし再生機構」(20年度末に解散)では、基本理念である中山間地域の創造的復興と持続性向上を実現するため、行政と住民をつなぐ中間支援制度・地域復興支援員を創設。総務省の地域おこし協力隊の原形となっている。「さまざまな自然災害で得られた災害知をいかにしてつないでいくかが課題」と先を見据えつつも、発災の有無にかかわらず、「その地域が将来にわたって“生きていく”には、人と人が寄り添い合う交流が重要になる」と力を込める。