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【45°の視線】建築史家・建築批評家五十嵐太郎氏寄稿/移動する「巨大建築」に戦争の記憶


 今年6月に公開された『フロントライン』は、日本で最初に新型コロナウイルスの集団感染が発生した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス」で何が起きていたかを題材とした映画だった。2020年2月、入港したものの、乗客の下船が許可されず、日本中が固唾(かたず)を飲んで、その状況を見守ったことは記憶に新しい。映画では、神奈川の災害派遣医療チーム、DMATが乗り込み、船内がそのまま陸地から隔離された病院として使われる様子が描かれていた。もちろん、客室はそのまま感染者にとっての病室になる。当時、乗客は廊下に出て、散歩することも許されなかった。

 歴史をたどると、隔離しつつ、管理しやすい空間として、廃船を利用して、囚人を閉じ込める監獄に使う事例は、18世紀から19世紀にかけて英国などで行われていた。例えば、テムズ川に係留された牢獄船である。ビルディングタイプとしての病院と監獄は、個室群の効率的な管理という類似した機能が求められるので、船が病院になってもおかしくない。実際、戦時下の病院船は、古代ローマ時代から存在したらしく、19世紀のクリミア戦争や南北戦争でも活躍し、20世紀の二つの世界大戦では客船を改造した病院船が登場した。そして1980年代以降、米国海軍は1000床を持つ世界最大の病院船を運用している。

 最近、筆者は、日本でも氷川丸が病院船に使われていたことを知った。敗戦から80年の節目となる8月15日に、太平洋戦争に関わる場所をいくつかまわったからである。国立近代美術館では、戦争画を大量に展示する『コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ』展(10月26日まで)、その隣の国立公文書館では、宣戦布告や「終戦の詔書」などの原本を展示する企画展(9月15日まで)を訪れた後、しょうけい館(戦傷病者史料館)に足を運んだ。

現在の氷川丸


 東京・九段のビルの2階と3階に入るしょうけい館はあまり有名ではないが、筆者の世代だと、上野駅から公園のあたりなど、かつて傷痍軍人が多くいた風景を覚えている。ここはまさに戦争で負傷したり、病気になった兵士の資料や情報を収集・保存する国立の展示施設である。これまで日本で十分に調査されなかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)を扱うテーマ展示『心の傷を負った兵士』(10月19日まで)も印象に残ったが、常設展示において7分くらいの映像で、病院船としての氷川丸の活動が紹介されていた。仕事は船内での治療や手術のほか、重症者の内地の陸海軍病院への搬送、戦地への医薬品や治療器具の輸送などである。氷川丸は赤十字のマークと緑のストライプが描かれ、ジュネーブ条約で保護される対象だったが、触雷の被害は受けるなど、危険は伴っていた。

 そこで横浜の山下公園に停泊している日本郵船氷川丸を見学した。シアトル航路のために1930年に竣工した貨客船である。「9.11」で倒壊した世界貿易センタービルの設計者、ミノル・ヤマサキの両親は、シアトルの日本移民だったから、日本と関係が深い都市だ。41年に海軍に徴用された後、アジアのあちこちをまわり活躍する。戦時下は24回の航海で約3万人の戦傷病兵、そして敗戦直後は復員兵と一般邦人の引き揚げは計11回の航海で約2万8000人を運ぶ。客室は病室、食堂が手術室や畳敷の病室、甲板が伝染病室に転用されたという。

 53年、シアトル航路用に復活し、当初の内装に復元された。初期のフルブライトの留学生も使用し、60年に船は引退している。もっとも、病院船は黒歴史なのか、これに関連する展示は少ない。やはり、チャップリンも乗船したという輝かしい客船時代の展示と、フランスの工芸家マルク・シモンによるアール・デコのインテリア・デザインが見ものだろう。国の重要文化財に指定されるのに、ふさわしい華やかな空間と装飾である。また下部の機関室に内蔵されたディーゼル・エンジンのエリアもカッコ良い。平和な風景だが、移動する巨大な建築としての船に戦争の記憶が残っている。ちなみに、山下公園も関東大震災のがれきで埋め立て、つくられたものだ。

 

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