【45°の視線】建築史家・建築批評家 五十嵐太郎氏 寄稿 複製できない体験とは何か | 建設通信新聞Digital

4月27日 土曜日

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【45°の視線】建築史家・建築批評家 五十嵐太郎氏 寄稿 複製できない体験とは何か

 学生の卒計で美術館や劇場などがテーマになることは多いが、ネタとして使っているだけで、本当に好きなのか疑問に思うことがある。以前、せんだいデザインリーグで、有名なミュージカルの演目を題材にした作品が提出されていた。シーンごとに観客が移動するというアイデアは面白かったが、では楽団はどうするのかという質問に対し、録音を流せばいいと答え、ずっこけた。
 もちろん、ミュージカルは舞台上の歌と劇が中心とはいえ、生の音楽があるかないかで決定的に違う。そもそもデジタル化が進み、ほとんど無料でいろいろな曲を楽しめるようになった。CDが売れなくなった代わりに、ライブやフェスの動員が増えた。音楽業界の主要な収入源となったのは、生で音楽を聴くという体験は複製できないからだ。
 コロナ禍によってライブの開催はしばらく難しかったが、最近ようやく行われるようになった。筆者もことしの5月末に横浜のGreen Room Festivalで久しぶりに音楽フェスを体験した。これは赤レンガ倉庫でアートの展覧会や映画の上映会をしつつ、その横の海辺で野外ライブを行うものである。そこで声に包まれるという忘れていた感覚を思い出した。
 中盤から徐々に盛り上がり、KICK THE CAN CREWのヒット曲『マルシェ』のサビで、少しずつ周りから声が出始めたのである。もちろん、観客はマスク着用が義務付けられ、発声してはいけないはずだった。アーティストも意図的にコール・アンド・レスポンスの時間を設けたわけではない。
 そしてDRAGON ASHが登場すると、2002年のワールドカップのテーマソングにもなった『FANTASISTA』において、地面をはうような声があちこちから湧き出て、その音響に包まれた。つまり、前から流れる演奏を聴くだけではない。フェスとは、全方位的な音の体験である。長い間、コンサートが開催されてもずっと黙って聴いていた観客が、ついに奪われていた声を発してしまったのは、ある意味で感動的な瞬間だったが、恐らくライブの規約を違反していたのだろう。
 演奏終了後、来年このフェスにおいて、「D」で始まり、「H」の文字で終わるバンドが出演していなかったら察してくださいと、ヴォーカルの降谷建志が言っていた。幸い、Green Room Festivalの後にクラスターは発生していないようだ。

5月末に横浜で開催されたGreen Room Festival


 全然違うジャンルだが、7月にミューザ川崎で聴いた現代音楽も印象的だった。ジェルジ・クルターグ作曲の『シュテファンの墓』は、途中から舞台ではなく、ホールの上部において分散配置された器楽の演奏が加わり、立体的な音響の効果を生む。これも現場でしか味わえない、空間性を伴う音楽である。
 実は建築も、そうした複製できない空間の体験を与えるものだろう。少なくとも現時点でのデジタル・テクノロジーは、まだそこまで進化していない。
 ことし、大ヒットしている映画『トップガン マーヴェリック』(22年)の序盤では、そのうち戦闘機は無人化され、パイロットは不要になるといわれたことに対し、ベテランになった主人公が、それはまだきょうではないと答えるシーンが作品のテーマをよく示していた。この映画では、CGで何でも表現でき、逆に驚きを失った時代だからこそ、手間をかけても、あえて実写で撮影することにこだわっている。
 CGを使わないという点では、ほかに『インセプション』を手掛けたクリストファー・ノーラン監督も知られていよう。そもそも主演のトム・クルーズは、『トップガン マーヴェリック』をただの続編ではなく、映画館で鑑賞してもらうために制作している。家庭用のテレビがいくら大きくなっても、巨大なスクリーンで見るという映画館の体験を超えることは難しい。だが、小さい画面でも済むような作品では意義が減ってしまう。スマートフォンでの鑑賞や倍速視聴が流行する現代において、この作品が多くのリピーターを獲得できたのは、映画館という空間に足を運ぶことで、得がたい体験を提供することに成功したからなのだ。

(いがらし・たろう)建築史家・建築批評家。東北大大学院教授。あいちトリエンナーレ2013芸術監督、第11回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展日本館コミッショナーを務める。「インポッシブル・アーキテクチャー」「装飾をひもとく~日本橋の建築・再発見~」などの展覧会を監修。第64回芸術選奨文部科学大臣新人賞、18年日本建築学会教育賞(教育貢献)を受賞。『建築の東京』(みすず書房)ほか著書多数。



 

  

   

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