能登半島地震発災から3ヵ月-地域建設業の奮闘-(2) | 建設通信新聞Digital

4月30日 火曜日

能登半島地震リポート

能登半島地震発災から3ヵ月-地域建設業の奮闘-(2)

【「輪島が孤立、ルート確保へ」/県南部から啓開・物資輸送】
 「輪島が孤立、すぐに出動を」--。「令和6年能登半島地震」で甚大な被害を受けた奥能登地域の地元建設企業の社員は、被災者でありながら自らの意志で「家族のために、地域のために」と避難所から道路啓開作業に当たった。一方、金沢市をはじめとする石川県南部の各地区建設業協会も県などから道路啓開や救援・支援物資の協力要請を受けて迅速に対応した。今回は県南部地区協会の初動対応を中心に振り返る。
 石川県建設業協会の平櫻保会長は元日夕、金沢市内の自宅で「経験したことのない強い揺れ」を感じたという。2日朝、県から道路啓開と物資輸送の要請を受け、金沢市内の協会役員を集めて対応を協議した。道路啓開は1班当たり3、4人体制の16班を3日に編成し、4日から2泊3日の工程で作業を進めることになった。
 これに先だち2日午前、真柄建設(金沢市)の先発部隊が孤立した輪島市へのルートを確保するため、現地に向けて出動。国道249号を北上するルートを進んだものの、土砂崩れに何度も行く手を阻まれては重機で土砂をどけ、道路の段差も応急的なスロープをつくりながら通行した。しかし、道路の被害があまりに大きく、このルートからの輪島入りはいったん断念せざるを得なかったという。
 石川建設工業(同)の寺田道生専務は「泊まるところがなくて大変だった」と当時を振り返る。同社は7日から作業に入ろうと、能登空港の奥能登総合事務所に集合したものの、地理が分からなかったため、県職員に誘導してもらい、現地2カ所を確認した。1カ所目は山が崩れていて小型バックホウ1、2台ではどうにかなるレベルではないと判断。2カ所目は2車線道路で車が通れるようになれば良いということになった。
 寺田専務は「今でこそキャンピングカーを持って行ったりしているが、その時は準備ができなかった。ワンボックスカーで車中泊し、トイレカーも持っていってしのいだ」と話す。
 こうした懸命の初動対応をしたにもかかわらず、一般のマスコミなどからは「東日本大震災に比べて道路啓開のスピードが遅いのではないか」と批判的な意見を受けた。これに対し、東日本大震災の復旧ボランティアに参加した経験のある企業の幹部は「道路の構造的にも能登半島は山に沿っている道路ばかりなので、作業するにしても横から入ることもできない。前から少しずつ進めざるを得ないので、どうしても時間がかかる」と指摘する。
 また、同幹部は「県の職員も疲弊していた。事務所内で寝泊まりしていたが、雑魚寝という感じで体もしんどかったと思う。(道路啓開の)ここができる、できないという判断がつけられていなかった。われわれ建設会社の人間が入って『この場所ならこの機械が何台必要』という判断をしてあげないといけなかった」という。
 もう一つの災害対応である救援・支援物資の輸送は、県だけでなく、北陸地方整備局からも協力要請を受けた。中でもボリュームが大きかったのが砕石だった。奥能登地域はもともと大きな原石山がなく、砕石の供給量が少ない上、地震でプラントが毀損(きそん)しまったためだ。最初は金沢・加賀などからダンプトラックで現地まで直接運搬していたが、往復に当初17時間も要したため、「これではドライバーが持たない」と判断。石川建協が県と協議し、のと里山海道の徳田大津IC付近の県有地を砕石の仮置き場とした。これにより金沢方面から徳田大津ICまで1日2往復、その先は2、3往復が可能となった。
 能登半島特有の地形や地理的条件が震災の初動対応を阻んだが、地元企業をはじめとする建設業の使命感、創意工夫などで発災から約3カ月の現在、幹線道路の道路啓開作業に見通しがついた。
【2024年4月2日付紙面掲載】

大規模な土砂崩れが行く手を阻んだ